政治経済レポート:OKマガジン(Vol.326)2014.12.25

今年最後のメルマガです。前号から間隔が短いですが、月2本の自分に課したノルマ。恐縮ですが、お付き合いください。前号でご案内した来年1月12日(月・祝)開催のセミナーへのお申し込み、ありがとうございました。引き続き受け付けておりますので、ご興味がある方はご連絡ください(地元052-757-1955、東京03-6550-1121)。第1部「東海地方の産業と日本経済」、第2部「異次元緩和の現状と為替・金利・株価の今後」です。


1.乙未(きのとひつじ)

毎年年末恒例の干支シリーズです。干支は十干十二支(じっかんじゅうにし)で構成されますので、「十」と「十二」の最小公倍数の「六十」でひと回り。六十歳になると自分が生まれた年の干支に戻るので「還暦」と言います。

ちなみに、十干は「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」、十二支は「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」。最初の組合せは「甲」と「子」の「甲子」。「甲子」の年に作られた野球場が甲子園です。

長い歴史を持つ干支。起源は紀元前17世紀頃の中国。複雑な事象を一定の規則性と根拠に基づいて説明する思想として知られる陰陽五行説(陰・陽の2つ、木・火・土・金・水の5つの要素の組み合わせによって事象を説明する思想)に端を発しています。

来年の干支は「乙未(きのとひつじ)」。干支の組み合わせの32番目。「乙」は、押さえる、止める、上から下へ押さえつける等々の含意。植物が上から押されて伸び出せず、土の中で屈曲している姿、種が地中で季節到来を待つ様子を表すそうです。

「未」は「木」に「一」で蓋をした構図で木が伸びきれない様子を描いた象形文字。外圧に押さえつけられ、条件が整わない中で耐え忍んでいる姿を表します。

「乙」も「未」も、要するに「我慢、我慢、もう少し、もう少し」というニュアンスを表す文字。陰陽五行説の視点から、「来年は努力しつつ、時節到来を待ちなさい」と諭しているということですね。

一方、来年はヒツジ(羊)年。「未」は干支の上では「ひつじ」と読みます。羊は古来から人間に最も貢献してきた身近な動物。

野生羊の狩猟が行われていた新石器時代の後、中国では紀元前8千年、メソポタミアでは同7千年頃から家畜化が始まったようです。

羊から利用されたのは脂肪と毛。肉、乳、皮に関しては山羊(ヤギ)の方が優れ、家畜化が先行。

しかし、山岳や沙漠等の乾燥地帯で暮らす遊牧民は山羊から肉や乳を十分に摂れず、これらについても羊に依存。結果的に、羊は乾燥地帯の遊牧民にとって最も重要で身近な家畜として定着しました。

因みに、現在全世界で飼育されている羊は10億頭以上。最多は中国で1億5千万頭と言われています。

世界各地で食されている羊肉。年齢によって呼び方が異なり、生後1年未満はラム、生後1年以上はマトン。生後1年以上2年未満をホゲットと呼ぶ地域もあるそうです。

日本で毛を刈った後の羊肉を消費するために考案されたのがジンギスカン鍋。その背景は、近代日本の歴史と深く関わっています。

2.ジンギスカン鍋

羊毛を原料とする毛織物。17世紀後半に綿織物が普及するまで、欧州諸国の衣類の定番。羊毛生産、毛織物生産は、欧州の主要産業として繁栄しました。

中世においては、イギリス、スペインが羊毛産地。一方、イタリアとフランスは毛織物の二大産地。羊毛産地と毛織物産地の間では羊毛貿易が拡大。

英仏間の百年戦争(1337年から1453年)等、中世欧州の戦争の背景には、羊毛貿易の利益を巡る確執が影響しています。

イギリスは14世紀中頃に羊毛産地から毛織物産地に転換。イギリス繁栄の基礎となりましたが、綿織物の普及、とりわけインドから大量かつ安価な綿織物が流入するようになり、毛織物産業は衰退。18世紀のことです。

そして19世紀。日本も影響を受けます。幕末までの日本は、絹織物、綿織物を除き、工業化の下地のある産業は皆無に近い状態。そこに明治維新が起きます。

1868年(明治元年)の日本の輸出額は1555万円。うち、生糸等の絹製品の割合は60%超。絹業(生糸、織物)は外貨獲得のための基幹産業であり、1872年(明治5年)の官営富岡製糸場(群馬)の設立につながります。

一方、明治初期の輸入の半分以上が、綿糸、綿布等の綿製品と毛織物。近代化した欧州(とくに英国)とその植民地であるインドで大量生産された綿織物と毛織物が大量に日本に流入しました。

明治政府は1872年に官営堺紡績所(綿業)、1879年に官営千住製絨所(毛業)を設立。外貨流出を抑制する一方、繊維産業近代化を進め、やがて輸出産業へと成長させます。

もっとも、江戸時代までの日本は羊や羊毛に馴染み薄。明治時代になって「お雇い外国人」が羊を持ち込みます。

羊毛及び軍用毛布の自給を説いたル・ジャンドルの進言を受け入れ、1875年、大久保利通が下総(千葉県成田市)に牧羊場を開設。日本での本格的な羊飼育の始まりです。

日清戦争、日露戦争、第1次大戦の経験を経て、1918年(大正7年)、政府は、軍隊、警察、鉄道員用制服の素材となる羊毛自給を目指す「緬羊百万頭計画」を立案。羊毛のみならず羊肉も消費させることで、農家の収入増加と、飼育頭数増加が企図され、その過程で考案されたのがジンギスカン鍋。

当時の日本人は羊肉を食べる習慣がなく、日本人に受け入れられる羊肉料理を開発する必要に迫られたようです。最初のジンギスカン専門店は、1936年(昭和11年)に東京都杉並区に開かれた「成吉思(じんぎす)荘」とされています。

ジンギスカン鍋が国民に広く普及したのは第2次大戦後。山形、岩手、北海道等でも元祖ジンギスカン鍋を主張している先もあるようですが、いずれにしても、羊毛、羊肉は近代日本の歴史と深い関係があります。

未(羊)年を前に認識を新たにしました。古代以来、人間のために、大量に飼育、屠畜、利用、食用にされている羊に感謝の気持ちを捧げます。合掌。

3.群羊を駆りて猛虎を攻む

20年前の「乙未」は1895年(明治28年)。日清戦争の最中ですが、明治維新後の近代化の努力が実を結び始め、繊維、陶磁器、機械産業等が形成されつつあった時期です。

60年前の「乙未」は1955年(昭和30年)。トヨタがクラウン、ソニー(東京通信工業)がトランジスタラジオ、東芝が電気炊飯器を発売した年。振り返れば、その後の高度成長期の幕開けを予感させる新製品が続々と発売されていました。

さて、来年の「乙未」は2015年(平成27年)。後世、どのような年だったと振り返られるのでしょうか。何に「我慢、我慢、もう少し、もう少し」と歯を食いしばり、その後、何を生み出すのでしょうか。

日本経済の未来にとって重要なのは、中毒のような金融緩和・財政拡大依存症でも、ピント外れの労働法制改悪でもなく、地に足の着いた技術や産業を創造し、継承することです。最近のメルマガでは、繰り返しこのことを訴えていますが、来年も自分なりに努力したいと思います。

今年(平成26年)は午(馬)年でした。明治になるまで日本人に馴染みが薄かった羊。馬にまつわる諺に比べ、羊にまつわる諺はあまり多くありません。よく聞くのは「羊頭狗肉(ようとうくにく)」。

羊の頭を店先にかけながら実際には犬の肉を売ってごまかす。つまり、見かけ倒し、実質が伴わないことの喩え。

「羊質虎皮(ようしつこひ)」も同じ意味。実際は羊なのに、虎の皮を被ってごまかす。外見は立派でも、実質が伴っていないことの喩え。「羊頭狗肉」と「羊質虎皮」では、「羊」の位置づけが真逆であるのは興味深い点です。

「岐路亡羊(きろぼうよう)」も大事な諺。中国戦国時代「列子」に登場する故事。逃げた羊を大勢で追いかけたものの、分かれ道が多く見失います。その話を聞いた思想家・楊朱曰く「真理はいくつもあるので分からない」。

「多岐亡羊(たきぼうよう)」も同じ意味。「岐多くして羊を亡う」と訓読します。本来は学問の真理のことを指しますが、転じて、岐路に際した選択の難しさを説いています。

そういえば、誰かが「この道しかない」と強弁していますが、そんな単純ではないでしょう。政策の選択は「多岐亡羊」。

政治は互いに「牛羊(ごよう)の目をもって、他人を評量するなかれ」。とは言え、異次元緩和に依存するばかりでは、いずれは「羊の食い破り」。

政治に携わる者は「羊頭狗肉」を反省しつつ、「千羊の皮は一狐の腋(えき)に如(し)かず」を肝に銘ぜよ。とは言え、そんな狐は見当たらず。

与党は「屠所(としょ)の羊」とならぬよう、野党は「群羊を駆りて猛虎を攻む」姿勢で精進せよ。異次元緩和に依存せず、「羊を以(も)って牛を易(か)う」知恵を追求せよ。

年末年始の酔い覚ましに、上記の文章解読をお楽しみください。因みに、「羊頭狗肉」と同意の英語の諺は「He cries wine and sells vinegar(ワインと叫んで酢を売る)」。

それでは皆さん、よい年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願い致します。

(了)


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