明後日から総選挙です。一昨日出演した朝生テレビ(テレ朝)で荻上チキさんと小島慶子さんの出演が急遽取り止め。自民党から選挙報道に関する「要請文」が報道機関に発出され、それを受けてテレ朝が「自粛」したそうです(詳細はニュースでご確認ください)。信じられないことです。
「信じられない」と聞いてピンクレディ「UFO」のメロディが頭をかけめぐるのは世代のせい。自民党とテレ朝に歌詞をプレゼントしましょう。「信じられないことばかりあるの、もしかしてもしかしてそうなのかしら、それでもいいわ、近頃少し、地球の男に飽きたところよ」。こんな政治や報道を行っていると、「UFO」なのか「ガラパゴス」なのかわかりませんが、日本は異質な国として世界から孤立していくことでしょう。さて、気分を変えて、今回は「特許」と「ガラパゴス」の話題です。
1.専売特許条例
日本で最初の発明保護の制度は1885年(明治18年)の「専売特許条例」。その「専売特許条例」に触発されて、多くの発明家、産業人が誕生しました。
最も典型的な発明家が豊田佐吉。言うまでもなく、自動織機を発明した今日の「トヨタ」のルーツです。
豊田佐吉は1867年(慶應3年)静岡(現在の湖西市)生まれ。父親は腕の良い大工。この地方は「ハタゴ」と呼ばれる手織り機で遠州木綿を作る産地であり、豊田家でも母親が機織りをしていたそうです。
佐吉19歳の時に「専売特許条例」公布。伝記によると、佐吉は村の夜学校で「これからは発明者の権利が保護される」ということを知り、自分の進路を決断。上京して発明家としてスタートを切ります。因みに、夜学校とは青年を対象にした自主的な勉強会です。
以来、研究開発・発明活動に没頭。1890年(明治23年)、木製の人力織機「豊田式人力織機」を開発し、翌年特許を取得。佐吉24歳のことです。
佐吉は既にその時点で「将来は人力ではなく動力による織機の時代が来る」と予想し、以後の発明につながっていきます。
明治維新直後の日本は輸出するものが乏しく、金や外貨がドンドン流出。心ある多くの人が危機感を抱き、それぞれの考えで殖産興業に邁進。
最初に輸出品として頭角を現したのが陶磁器。その立役者は江戸で武具商を営んでいた森村市左衛門(6代目)。先祖は佐吉と同じ静岡(現在の菊川市)がルーツ。
1866年(慶應2年)、幕府は学術修養や貿易のための海外渡航を許可。市左衛門は弟を渡米させ、海外貿易の端緒を開きます。
ニューヨークで雑貨屋を出店。骨董品、陶器、団扇(うちわ)、提灯(ちょうちん)等を輸出。やがて陶磁器のディナーセットやコーヒーカップを生産・輸出するようになり、その後の森村グループ(日本ガイシ、ノリタケ、日本特殊陶業等)に発展していきます。
その次に主要な輸出品に躍り出たのが繊維。明治初期は、絹織物が輸出の6割以上を稼ぐ一方、綿糸、綿布、毛織物の輸入が輸入全体の半分。このため、絹業を伸ばし、綿業・毛業を近代化することが急務でした。
そのため、政府は官営工場を創業し、産業・企業育成を図ります。1872年(明治5年)には絹業の富岡製糸場(群馬)、綿業の堺紡績所(大阪)、1879年(明治12年)には毛業の千住製絨所(東京)が設立されました。
こうした繊維産業の勃興と密接に関係しているのが「専売特許条例」。その契機になった人物は臥雲辰致(がうんときむね)。1842年(天保13年)長野(現在の安曇野市)生まれの辰致は、一般にはあまり知られていません。
辰致も殖産興業を目指したひとり。綿業の生産性向上、近代化を企図し、1873年(明治6年)、「ガラ紡」を発明。
「ガラ紡」とは、回すとガラガラ音がするのでそのように呼ばれた機織り機。西洋からの輸入機織り機に比べて廉価で、かつ手作業の4倍の速さで糸を紡げたことから、爆発的に普及。全国で模倣されました。
1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会で最高賞を受賞。しかし、4年後の第2回には大量の模倣機が出品される一方、発明者の辰致は生活苦に喘いでいました。
その事実を見かねた農商務省(当時)の官僚が発明の保護の必要性を実感し、1885年(明治18年)、「専売特許条例」を創設。因みに、その官僚とは、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任する高橋是清でした。
2.新規法度
英語の「patent(特許)」の語源はラテン語の「patentes(公開する)」。中世ヨーロッパでは、王(絶対君主)が報償・恩恵として特許状(letters patent)を臣民に付与。商工業や発明の独占権を与えたと言われています。
1421年、ベネチア王国はブルネレスキ(建築家・彫刻家・金細工師)に特許を付与。歴史上確認できる最古の特許。そして1474年、世界最初の成文特許法「発明者条例」を公布。
1624年、英国議会は「専売条例」制定。今日の特許制度に至る基本的な考え方を明確化。ワットの蒸気機関(1769年)、アークライトの水車紡績機(1771年)等の画期的発明につながり、産業革命を起こす背景となりました。
英国から独立した米国。1787年連邦憲法において「科学及び有用な技術の発明者に対して、一定期間の独占権を与える」ことを明文化。憲法のこの規定に基づき、1790年、特許法が制定されました
フランスでは1791年、ドイツでは1877年に特許法制定。列強諸国に特許制度が徐々に広がり、特許制度の考え方、枠組みの世界(西洋)標準が形成されていきます。
この間、日本では1721年(亨保6年)の「新規法度」によって「新しいものを作ることは一切禁止」というお触れ。新しい事物の出現を忌避する幕府の方針です(どこかの「要請文」を彷彿とさせます)。
しかし、時代は展開。1860(万延元年)、感臨丸で渡米した使節団が米国特許庁を視察。福沢諭吉も団員として加わっていました。
幕末、外国人との交易や西洋技術の入手によって一旗揚げようと考える人々が浦賀、横浜、神奈川等の開港地に殺到。
静岡(下田)出身の下岡連杖(しもおかれんじょう)は250両もの大金を投じて写真器を入手。日本人で初めて写真技術を習得し、江戸で写真店を開業。しかし、競争相手が次々と現れ、元手を回収できない状況に追い込まれます。
こうした事態を知った岐阜出身の幕臣、神田孝平(後に貴族院議員等)は、新しい技術の伝習者を保護する必要性を説き、米国の特許制度を詳しく調査。
明治維新になり、新政府は殖産興業に注力。株仲間(問屋カルテル)等、旧幕時代の経済制度を廃す一方、殖産興業に資すると考える諸施策に腐心。尺貫法統一、博覧会開催、北海道開拓等がその代表例です。
こうした中、特許制度についても維新直後から検討され、1871年(明治4年)、日本最初の特許法である「専売略規則」公布。しかし、当時の日本は技術水準が低く、「専売略規則」は1件の官許もないまま翌年停止。
しかし、新しい産業・企業を興し、輸出振興を図るために、特許制度創設を求める声は再度高まっていきます。
そして1885年(明治18年)、「専売特許条例」公布。1888年(明治21年)には審査主義を確立した「特許条例」公布。1899年(明治32年)、「特許法」が制定され、パリ特許条約にも加入。1905年(明治38年)、特許制度補完のために「実用新案法」制定。1922年(大正11年)には「先願主義」が採用され、今日の特許法の基礎が作られました。
特許1号は東京在住の堀田瑞松による「堀田式錆止塗料とその塗法」。因みに、特許1号から100号までの出願者は平民100人、士族21人(延べ人数)。東京在住者による特許が59件、他府県在住者が41件。
当時の文献によると、地方在住の特許取得希望者あるいは取得者は、続々と東京に集まってきたそうです。上京した豊田佐吉もそのひとりということでしょう。
3.ガラパゴス化
ところで、特許庁が日本の10大発明家を選定しています。その筆頭はもちろん豊田佐吉であることは言うまでもありません。
10人の出身地には、特徴があります。静岡2人、三重2人、愛知・大阪・兵庫・京都・岡山・富山各1人(東海5人、近畿3人、中国・北陸各1人)。全員西日本です。
具体的には、木製人力織機の豊田佐吉(静岡)、ビタミンB1の鈴木梅太郎(静岡)、養殖真珠の御木本幸吉(三重)、写真電送の丹羽保次郎(三重)、KS鋼の本多光太郎(愛知)、アドレナリンの高峰譲吉(富山)、グルタミン酸ソーダの池田菊苗(京都)、邦文タイプライターの杉本京太(岡山)、八木アンテナの八木秀次(大阪)、MK磁石鋼の三島徳七(兵庫)。
愛知県選出の国会議員として、豊田佐吉以外の東海地方出身者の偉業の概要を学んでおきます(お恥ずかしいことですが、あまり知りませんでした)。
ビタミンB1を発見した鈴木梅太郎(静岡)。明治40年に東京帝国大学教授に就任。当時、軍人や地方からの上京者に脚気患者が多く、死亡者も続出。鈴木は原因究明に取り組み、米糠(こめぬか)中に脚気を治癒する成分があることを発見。その成分が「アベリ酸(今日のビタミンB1)」。世界で最初に抽出されたビタミンです。
養殖真珠の御木本幸吉(三重)は、真珠採取を企図して明治21年に英虞湾でアコヤ貝養殖を開始。明治23年の第3回内国勧業博覧会(上野)に真珠入り物品等を出展した際、審査官の箕作佳吉東京帝国大学教授から真珠そのものの養殖の可能性を示唆され、真珠養殖に着手。明治26年、養殖アコヤ貝の穀の内面に養殖真珠を造り出すことに成功しました。
写真電送の丹羽保次郎(三重)は逓信省電気試験所の技術者。腕を買われて民間企業に転職(今で言えばスカウト)。当時の日本の電気技術は欧米の模倣一辺倒。丹羽は独自技術の必要性を感じ、大正13年、有線写真電送装置を発明。昭和天皇即位式のニュース写真電送にも使用されました。その後、無線写真電送技術も開発しました。
KS鋼の本多光太郎(愛知)は東北帝国大学教授。第一次世界大戦勃発に伴い磁石鋼の輪入が途絶。日本は自給を迫られたことから、本多は磁石鋼開発に着手。従来のタングステン鋼と比べ抗磁力が3倍の強い焼入硬化型永久磁石鋼(KS鋼)を発明。「KS」は開発資金を提供した住友吉左衛門の頭文字に因んだものです。
いやはや昔の東海人は凄い。改めて誇りに思います。一方、現代の日本。最近では名古屋大学出身者のノーベル賞受賞が相次ぎ、喜ばしい限りですが、日本全体では産業や企業の「ガラパゴス化」懸念が続いています。
「ガラパゴス化」は日本生まれのビジネス用語。そこそこの市場規模を有する孤立した環境(日本)で技術や製品の「最適化」が進むと、日本以外の技術や製品との互換性を失い、孤立して取り残されることを意味します。
大陸と隔絶していたために独自の生物進化を遂げたガラパゴス諸島に因んだネーミングですが、外来種の進入によって独自種は淘汰される危険性に晒されています。
そういう観点から、内外の動向を注視するとともに、新技術や製品を発明・開発した際には、自ら「ガラパゴス化」しない注意力と戦略が重要です。
今では多くの人や企業が活用しているQRコード。選挙ポスターにも使われています。このQRコード技術。1994年にデンソーの開発部門(現在は分社<デンソーウェーブ>)が発明した技術。QRは「Quick Response」の頭文字です。
デンソーはQRコードの特許権を行使しないことを宣言。そのことによってQRコードを「ガラパゴス化」させず、むしろ世界標準(デファクト・スタンダード)化する戦略を採用したと言えます。
ノーベル省経済学者のスティグリッツ博士は、特許権や知的財産権は「諸刃の剣」と評しています。発明家や企業の投資意欲を高める一方、技術や知識の拡散・普及を阻害し、結果的に技術革新と成長の障害となるリスクがあると指摘しています。
日本はそこそこの市場規模があることから、技術や製品を巡って国内市場のシェア争いをしている間に、世界から取り残されて「ガラパゴス化」するリスクに常に晒されています。今後も注意力と戦略が不可欠です。
「UFO」のような非常識な危険種から攻められても、日本の政治や社会が健全に生き残るために、抵抗力をつけ、世界から見て「ガラパゴス化」することのないよう、頑張ります。
(了)