先週末(11日)の日経平均株価は前日比340円安の13,960円。半年振りの14,000円割れ。日本時間同日深夜のNYダウも同143ドル安。週明け東京市場の動向が気になります。実態以上に「期待」を高めたり、「期待」と「予想」の違いを意図的に誤用している咎(とが)の影響が顕現化するかもしれません。
1.天晴れ
先週、旧知の大手某経済紙の某記者氏が久しぶりに議員会館の部屋を訪ねてくれました。某氏は敏腕のベテラン記者。
経済情勢について雑談をする中で、「最近の某経済紙の記事は政府の『提灯(ちょうちん)記事』が多くて、信頼性に欠けるねぇ」と言うと、某氏は答えにくそうに次のように言及。
「いやぁ、お恥ずかしい。社の意向でどうしてもそういう内容になるんですよ。『今回が日本経済最後のチャンス。足を引っ張るような記事は載せられない』という幹部の方針です」。
なるほど。「日本経済の足を引っ張らない」という決意のほどを聞かされると「アッパレ(天晴れ)」と言いたいところですが、話はそんな単純ではありません。
まず、第1に日本経済に対するその思いは、報道機関のあり方としては問題なしとしません。事実を客観的に読者に伝えるのが新聞の使命。違和感があります。
新聞が自社の立場、社論を持つことは否定しません。しかし、それはまさしく何かに対する「見解」の類(たぐい)。経済情勢を脚色して報道することとは異なります。
とは言え、まあ某経済紙の気持ちをグッと理解したとしても、第2の懸念を指摘しておかなければなりません。
さきほどの某記者氏、「足を引っ張るような記事は載せられない」に続いて、「期待を萎(しぼ)ませることはできない」と発言。さすが某経済紙。「期待」というのは、まさしくアベノミクスのキーワード。
日銀総裁が「異次元緩和」を宣言し、実行したことで、円の価値が下がる、円安になるという「期待」が芽生え、現に円安が実現。円安に伴って輸出企業の業績が好転。輸出企業の中心に株価も上昇。
経済政策は結果が全て。ここまではアベノミクス、その原動力である「異次元緩和」を評価しなくてはなりません。
しかし、日本経済の9割を占める中小企業・零細事業者、その社員や事業者への好影響の波及はこれからの課題。
円安のデメリットも顕現化。輸入原燃材料・食料品の価格上昇は中小企業・零細事業者や家計にはダメージ。消費税引き上げの影響もあります。円安でも輸出数量は伸びず(いわゆる「Jカーブ効果」も出現せず)、貿易収支は赤字基調。
さて、経済情勢を客観的に伝えずに、「日本経済絶好調」と連呼して「期待」が膨らむように報道することが、本当に「期待」を実現することにつながるならばそれも良し。
「アッパレ」の社論。しかし、繰り返しになりますが、ことはそんなに単純ではありません。因みに「アッパレ」の語源は「哀れ(あわれ)」。喜びも悲しみも含め、嘆賞、悲哀などの湧き出る感情を表す言葉。
中世以降、賞賛の意味を込めて使う時には、「哀れ」が促音化し、意味から連想される当て字として「天晴れ」という表記が使われるようになりましたが、語源とは無関係。「アッパレ」の語源が「哀れ」であることは、心に留めておきます。
2.贔屓(ひいき)の引き倒し
そもそも、「期待」という概念は20世紀後半の経済学が生み出したもの。黒田日銀総裁は「期待」に働きかけると言っていますが、「期待」とは「実現」が保証されるものではありません。
「今年は日本一になる」と誓うプロ野球チーム。ファンは「期待」しますが、日本一が「実現」する保証はありません。「期待」とはそういうものです。
経済学の「期待」は英語の「expectation」の訳。本来は「予想(expect)」という意味に過ぎません。ところが、日本語で「期待」と訳したところに誤解が生じています。
日本語の「期待」には、「良い結果を望む」とか「良い結果になる可能性が高い」という語感を含んでいます。
経済学的には、「異次元緩和」は「期待に働きかける」ではなく「予想に働きかける」というのが正確で中立的な表現。経済学の用語と一般的な日常用語の語感、含意が異なることに留意しなくてはなりません。
「それでも、現に円安になって、株価が上がって、輸出企業の業績が上がったからいいじゃないか。提灯記事の何が悪い」という某経済紙の口吻(こうふん)が聞こえてきそうですが、悪いと言っているのではありません。心配しているのです。
そこで頭を過(よぎ)る言葉が「贔屓(ひいき)の引き倒し」。政府を贔屓にするのは勝手ですが、かえって政府を困らせることにならないでしょうか。
消費税の影響、円安のデメリット、中小企業・零細事業者の苦境等から、景気の先行きを少し冷静に見ておくべきところを「提灯記事」で客観的な現実以上に「期待」を嵩上げ。
仮に実際に景況感に陰りが出る場合、「期待」を意図的に高めた反動から、必要以上にマイナスインパクトを強めるリスクがあります。報道のあるべき姿に反した結果です。
「贔屓」は本来「ひき」と読みますが、長音変化して「ひいき」。「贔」は貝(財貨)を3つ重ねて重い荷を意味し、「屓」は鼻息荒く力(りき)むこと。
この二文字で構成される「贔屓」は「グッと力む」「頑張って支える」という含意。転じて、特定の人を助けるために力を入れる、目をかけるという意味に進化しました。
中国では、碑や柱の下を支える石に彫られた亀を「贔屓」と言います。「贔屓」は龍から生まれる亀に似た伝説上の生き物。「グッと力む」「頑張って支える」という漢字の意味から転用されたのか、その亀は「贔屓」と呼ばれるようになり、土台や台座として使われるようになりました。
土台や台座ですから、その「贔屓」を引っ張りすぎると碑や柱が倒れてしまいます。転じて「贔屓の引き倒し」という表現が誕生。
本来は「予想」を高める「異次元緩和」。「予想」と「期待」を意図的に誤用したうえで、「提灯記事」が「期待」を高めすぎ、「贔屓の引き倒し」にならないことを祈ります。
3.茶坊主
「提灯持ち」は主(あるじ)の足下を照らす役回り。転じて、有力者に媚びへつらう者に対する蔑称となった「提灯持ち」。
「提灯記事」はこの「提灯持ち」に由来します。取材対象である組織や個人の意図や希望を汲み取り、持ち上げたり、過大評価するために書かれる記事です。
取材対象の手先や走狗(そうく)として奔走。取材対象の機嫌をとるため、頼まれもしないのに、誉めたり、宣伝したり、肯定・追認します。実に見苦しい。
最近の言葉でいえば「ステルスマーケティング(略称ステマ)」の一形態。「ステマ」はユーザーや消費者に気づかれないように宣伝すること。2012年の新語・流行語大賞にノミネートされ、ネット流行語大賞では金賞に選ばれました。
「ステマ」は新しい表現ですが、同様の手法は古くからあります。日本流に言えば「サクラ」とか「ヤラセ」。
「ステマ」はビジネス倫理の観点から問題視され、発覚すれば、ユーザーや消費者の信用を落とし、不買運動につながるケースもあります。
「ステマ」を仕掛ける企業や事業者は、ネットへの書き込みチーム等の身分を隠蔽、秘匿して行動するのが常套手段。
某経済紙の「提灯記事」の場合、身分は明らか。むしろ自らの社会的権威で「期待」を誘導しようとしているのですから、より巧みというか陰湿というか、実に素晴らしい(単なる皮肉です)。そのエネルギーは、報道機関本来の社会的責任を果たすために使ってもらいたいものです。
したがって、「ステマ」というよりも、某経済紙は政府・日銀の「タニマチ」と言うべきかもしれません。明治時代、大阪市中央区谷町の商家や医者が相撲力士を応援していたことから、芸能人や力士を熱心に応援する人を「タニマチ」と呼ぶようになったそうです。
メルマガを書きながら、類似の慣用語がどんどん頭の中に湧いてきました。「太鼓持ち」、「幇間(ほうかん)」、「茶坊主」。
「太鼓持ち」、「幇間」はメルマガVol.307(3月17日号)でも取り上げましたが、「太鼓持ち」の語源は宴席などで座をとりもつ「太鼓持ち」。
太鼓の演奏で巧みに調子をとること、客に調子をうまく合わせること、踊りやお囃子などで鉦(かね)を持たない者は太鼓を持つため、鉦を「金」にかけて、金持ちの客の機嫌をとること。
語源は諸説ありますが、もうひとつは豊臣秀吉、つまり太閤殿下を持ち上げて機嫌をとったお調子者を「太閤持ち」と呼び、転じて「太鼓持ち」。「幇間」は「太鼓持ち」の別名です(詳しくはメルマガVol.307をご覧ください)。
初登場は「茶坊主」。室町時代から江戸時代にかけて、僧ではなく、剃髪した武士のことを「茶坊主」と呼んだのが語源のようです。
有力武士に仕え、茶席の企画、給仕や接待を担う者を総称して「茶坊主」。初期には同朋衆(芸能者など)から取り立てましたが、やがて、幼少より礼儀作法や教養を仕込まれた武士の子息を登用。
主君や有力者と接触する機会が多く、有能な「茶坊主」は時に大きな影響力を持ち、畏怖される存在となりました。
転じて、権力者に媚びて出世や保身を図る者、権力者の威光をかさにきて傍若無人に振る舞う者の喩えとして使われる「茶坊主」。
某経済紙のみならず、どうも最近「茶坊主」のような報道機関やその長が増えて、毎日憂鬱な日々です。「天晴れ」な「茶坊主」が「贔屓の引き倒し」をしないよう、日本経済のために客観的な論争に努めます。
(了)