7月16日の日経新聞1面トップ見出しは「空自機模型、中国が破壊」「AWACS形、ミサイル訓練か」。尖閣諸島周辺海域への連日の海警局艦船侵入、空軍機の領空接近や海軍艦隊の日本列島周回示威航行をはじめ、中国の挑発的強硬姿勢には危機感を抱かざるをえません。7月8日の安倍元首相殺害事件の影響でニュースが消し飛んだ感がありますが、その2日前に行われた英米情報治安当局トップによるテムズ・スピーチは強烈な内容です。
1.テムズ・スピーチ
今月6日、ロンドンのウェストミンスターにあるMI5(英情報局保安部)本部(通称テムズ・ハウス)でMI5ケン・マッカラム長官とFBI(米連邦捜査局)クリス・レイ長官が共同スピーチを行いました。その内容は衝撃的です。
英米情報治安当局トップが揃い踏みでスピーチするのは史上初。演題は「中国リスクは最大の脅威」。聴衆である企業トップや大学幹部に対して「中国が経済と国家安全保障に対する長期的な最大脅威である」と断じました。
マッカラム長官は中国による航空宇宙企業への高度なサイバー攻撃を阻止したことを、レイ長官は米裁判所が軍事航空技術スパイ容疑で中国情報機関幹部に有罪判決を下したことを明らかにしました。
マッカラム長官は英国が過去1年間に37ヶ国と対中国に関する情報共有を行ったことに言及。情報漏洩防止のためのアカデミック・テクノロジー承認スキーム(ATAS)制度実施後に中国人民解放軍と関係のある学生50人以上が英国を出国したことも説明しました。
両長官は、中国によるスパイ行為の脅威に警鐘を鳴らし、企業技術に対して中国政府が大規模なサイバースパイ活動を行っていると警告。
曰く「皆さんの企業や大学が最先端技術、AI等に関連する製品開発等に携わっているならば、そのノウハウは中国政府にとって重要な関心事である」。
「既に中国市場に進出している、あるいは進出しようとする企業は、想像以上に中国政府に注目されるだろう。中国進出は人類史上最大の富の移動になる」と注意喚起。
レイ長官は「中国政府は中国製造2025計画遂行のために必要な主要技術を特定し、その技術を盗むためにあらゆる手段を講じ、様々な産業で雇用破壊という深刻な被害をもたらしている。例えば、GE(ゼネラル・エレクトリック)合弁会社幹部をリクルートし(エージェント化し)、中国にいるハッカーがアクセスできるようにして最先端ジェットエンジン技術を盗もうとした」と実例を例示。
また「人的なスパイ活動とハッキングを組み合わせて、某大学から新型コロナウイルス感染症の研究を盗み出そうとした」とも指摘。
両長官は「ビジネスにおいて知らず知らずのうちに中国の諜報員と取引している可能性がある」と断じました。
マッカラム長官によると「英国航空専門家がオンラインで中国企業に勧誘され、中国に2度渡航し、そこで飲食接待されて密接な関係になり、軍用機技術についての詳細な情報を要求された」そうです。
レイ長官は中国の「潤沢な資金を使ったハッキングプログラムによってマイクロソフトのソフトウェア(Exchange Server)が標的になり、米国ネットワークに1万以上のWebシェル(バックドア)をインストールされた」とも述べました。
両長官によると、MI5の対中国調査活動量は2018年の7倍になり、FBIは1日に平均2件のペースで対中国の新しい防諜プロジェクトが立ち上がっていることにあえて言及。
米英両国は対中国で結束。英国は米国に倣い、2027年末までに5Gネットワークからファーウェイ供給の全機器を撤去すると明言しました。
さらに両長官は利用可能な政府支援を活用するように促しました。マッカラム長官は「英国家インフラ保護センター(CPNI)のウェブサイトを通じてコンタクトを取ってほしい。CPNIは企業や大学が直面するリスクに対して専門的な知見を提供する」と語っています。
スピーチの最後にマッカラム長官は中国政府の反応を見越して「今日の発言に関して独裁的中国共産党から中国恐怖症だという批判があれば、皮肉にしか聞こえない」と挑発。
案の定翌7日、「口撃」でお馴染みの中国趙立堅報道官が記者会見で「我々は米英高官に中国の発展を正しい視点で客観的かつ合理的に見ること、そして嘘を広めたり、無責任な発言を止めるように強く求める」「米国は世界の平和、安定、発展にとって最大の脅威」と発言。
在ワシントン中国大使館報道官も声明を発表。曰く「誤った非難で中国のイメージを悪化させ、中国を脅威として描いている」と主張。想定通りの応戦です。
2.別のルビコン川
6月27日、バイデン大統領はドイツ南部バイエルン州のエルマウG7で、途上国に対するインフラ支援を強化する新たな枠組み「グローバル・インフラ投資パートナーシップ(PGII)」創設を発表しました。途上国の対中国依存を低下させる狙いです。
一方G7に先立ち、習近平主席とプーチン大統領は電話会談で長期的協力関係を確認し合い、習主席は欧米による対露制裁に反対する意思を表明。プーチン大統領は台湾問題等における欧米による中国への内政干渉に反対する意思を示しました。
欧米対中露の大国間対立は激しさを増しています。日本は欧米との結束を強め、中露に対抗する姿勢を鮮明化。岸田首相はG7後の6月29日、マドリードで開かれたNATO(北大西洋条約機構)首脳会議に出席。日本の首相として初参加です。
「欧州とインド太平洋の安全保障は不可分であり、力による一方的現状変更は世界のどこであれ認められない。防衛力を抜本的に強化し、日米同盟を新たな高みに引き上げる」「地域の平和と安定を守るために、中国にも主張すべきは主張し、責任ある行動を求めていく」という趣旨の発言をしました。
日本を取り巻く安全保障環境を鑑みれば理解できる選択ですが、ルビコン川を渡った感もあります。大国間対立の中で、日本の立ち位置は地政学的な特殊さ(中露及び北朝鮮に隣接し、台湾も近く、韓国とは微妙な関係という特殊さ)から、複雑さを増しています。
「ルビコン川を渡った」とは、ご存知のとおり古代ローマの有名な故事に由来します。軍を率いてルビコン川を越えることは法により禁じられており、禁を破ればすなわち共和国に対する反逆と見做されました。
紀元前49年1月10日、ローマ内戦下でカエサルは元老院の命に背き、軍を率いてルビコン川を渡河。「賽は投げられた」と檄を飛ばす有名なシーンです。
以来「ルビコン川を渡る」という言葉は、その後の運命を決め、後戻りのできない重大な決断・行動をする比喩として使われています。
岸田首相がルビコン川を渡ったものの、中国に進出する日本企業は一緒に渡ったのでしょうか。いや、既に中国に本格進出という「別のルビコン川」を渡っていたとも言えます。
財界関係者に話を聞くと「岸田首相の外交路線によって中露との今後の経済関係が不安」との反応でしたが、一方で以下のような楽観的見方も聞かれました。
曰く「欧米と中露の対立が現在のような状況が続くのであれば、中露両国とも日本経済に打撃を与える一方的行動は極力控えるのではないか」。
曰く「中露両国にとって日本は貿易相手として重要な存在であるほか、仮に日本へ経済制裁を発動すれば欧米との対立がさらに高まるだけでなく、世界的なイメージ悪化、世界からの孤立を招くことから、日本叩きはしないのではないか」
以上のような見方はいずれの岸田首相が「ルビコン川を渡る」前であれば多少の説得力を感じ得ましたが、今となっては希望的観測に過ぎません。
中国に本格進出という「別のルビコン川」を渡ってしまっていた経済界にしてみれば、そのような希望的観測に満ちた展開を望みたいという深層心理でしょう。
中露両国とも日本経済に強い影響を与えるため、半導体やレアアース、原油や天然ガス等の資源を念頭に戦略的行動に出てくる蓋然性が高いと見ておくべきです。そうならなければ幸い、そうなっても耐えられる対抗策を講じておくことが肝要です。
過日、プーチン大統領は「サハリン2」の運営を新設するロシア企業に譲渡することを命じる大統領令に署名しました。
日本政府及び出資している三井物産、三菱商事は「サハリン2の権益維持」を決めたと報道されていますが、どうやって維持するのでしょうか。日本側の意思でどうなるものでもありません。
強制接収を強行すれば、ロシアに投資する企業はなくなるでしょう。しかし、既に経済制裁を受けているロシアにとって新たなダメージはないという判断だと思います。
日本は新会社の株式取得をロシア政府に申請するのか、出資せずに新たに輸入契約を結ぶのか。いずれも高くて危険な取引になります。
あとの選択肢は撤退。サハリン2の英シェル、サハリン1の米エクソンモービルは既に撤退表明。英米と足並みを揃えることになりますが、日本のエネルギー不足はますます深刻化。石油、風力等の資源、インフラがある英米とは事情が違います。
ルビコン川を渡る際、カエサル曰く「ここを渡れば人間世界の破滅、渡らなければ私の破滅。神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう。賽は投げられた」。
岸田首相や日本企業に「勝利の戦略」「勝利の方程式」はあるのか。結果は「神のみぞ知る」世界です。「勝利の戦略と方程式」を創造するために、僕も努力します。
3.死ぬ瞬間
テムズ・スピーチが行われ、岸田首相がルビコン川を渡るのに先立つ4月19日、三井物産戦略研究所が「変容するチャイナリスク」と題したレポートを公表しました。
「中国ビジネスの機会拡大とリスクの複雑化」が進む中、中国リスクを偏見や感情論抜きで冷静に評価することの重要性を説いたレポートです。興味深く読みました。
中国でビジネス展開する日本企業にとって、新製品発表や工場起工式等のイベント開催の禁忌日があります。禁忌日に強行すると被害に遭う場合があります。
最近でも実例が出ています。ソニー中国法人が昨年7月7日に新製品発表を行い、「国家の尊厳を損ねた」として罰金処分を科されました。7月7日は盧溝橋事件勃発日でした。主な禁忌日は以下のとおりです。
5月4日(五四運動)、5月9日(対華21ヶ条要求受諾)、6月4日(天安門事件)、7月1日(共産党成立)、7月7日(盧溝橋事件)、8月1日(人民解放軍成立)、8月13日(上海事変)、9月3日(抗日戦争勝利)、9月18日(柳条湖事件)、12月13日(南京事件)。
これは政治リスク顕現化の典型例ですが、そのリスクを甘受しても余りある経済メリットがあると思うから日本企業は進出してきました。
中国は今年、高所得国になる見込みです。2021年の中国国民1人当たりGNI(国民総所得)は12438ドル(約153万円)で、今年の政府成長目標(5.5%前後)を達成すれば、世界銀行の示す高所得国(12696ドル以上)入りは確実です。
2020年の海外直接投資受入は中国(1630億ドル)が米国(1340億ドル)を上回り、世界一を奪取。名目GDPでは2030年前後に米国を抜き、経済規模は世界最大になる見通しです。
消費高度化や脱炭素シフトなど先進国と同じトレンドであり、DX進展も著しく、中国市場を新しいビジネスやサービスの実験場と見做す欧米企業も少なくありません。
経済的誘因が絶えない一方、政治リスクは高まっています。強権的社会統制、唐突強引な市場介入、新疆等を巡る人権抑圧、台湾問題、米中対立、中露蜜月等、懸念は拡大しています。
中国政府は中国の「核心的利益」侵害に及ぶ外国政府・企業を徹底弾圧する方針です。「核心的利益」とは、2011年公表の「中国の平和発展白書」によると「国家主権」「国家安全」「領土の一体性」「国家統一」「憲法によって確立された国家の政治制度と社会の安定」「経済社会の持続可能な発展の基本的保障」です。
中国ビジネスにおける経済リスクと政治リスクは表裏一体、密接不可分であり、両者の関連性はより深まっています。
同レポートは中国リスクを3つに分類し、リスク評価を5段階に分けて解説(詳細はご一読ください)。そして、リスク要因を検討した結果とビジネスリターンを比較し、総合評価が必要としています。
要するに、この項の冒頭で記したように「中国ビジネスの機会拡大とリスクの複雑化」が進む中、中国リスクを偏見や感情論抜きで冷静に評価し、「臆病にならず、冷静に分析して、ビジネスを展開すべし」という結論のようです。
テムズ・スピーチと岸田首相のルビコン川渡河以前のレポートですから、その後の認識は変わっているかもしれません。しかし、このトーンが経済界の共通認識だとすれば、「正常化バイアス」がかかっているという印象です。
過去のメルマガで何度か取り上げた日本社会の体質である「正常化バイアス」とは「根拠なく、たぶん大丈夫と考えて現状維持を惰性で続ける体質」を示しています。
日本の体質を別の視点から捉えると、1969年にベストセラーになった精神科医エリザベス・キューブラー・ロスの著書「死ぬ瞬間」の内容にも準えます。ロスは死に至る心理を「否認」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」の5段階に分けています。
中国リスクはたぶん大丈夫、グローバルサプライチェーンに組み込まれた中国は最後には自制するという楽観論によって問題の存在を「否定」。
しかし、現実に中国リスクが明らかになると「中国進出は皆がやっていること」「どうしようもない」「今さら中国と手は切れない」との「怒り」。
次は「いろいろ考えるとデメリットもメリットもある」「総合評価と総合判断が重要」と自らに言い聞かせて心の中で「取引」。
事態の深刻さを否定できなくなるとフリーズして、呆然(茫然)とする「抑鬱」。そして、結果的に完敗して軍門に下る「受容」。
日中関係が改善するように微力ながら努力します。同時に、経済界や企業、大学等のアカデミアが目先の利益を優先して根本的リスクに目を背けることのないよう、より正確な情報提供に努めます。(了)