ロシアがウクライナに対して東部中心都市マリウポリの明け渡しを要求。ウクライナは拒否。既にマリウポリはロシア軍に包囲されているとの報道。明け渡さなければ、おそらく一斉攻撃か兵糧攻め。プーチンの狂気を止められるのは誰か。ロシアの政商集団オリガルヒに期待する声もあるが、プーチンとは癒着関係にある同じ穴の貉(むじな)。貉は主にアナグマのことを指す妙。まさにロシア的です。化学兵器や核兵器使用に至らないことを願うばかりです。今週の国会ではゼレンスキー大統領のオンライン演説が行われる予定です。
1.フォルト・ライン紛争
「戦争は始めたい時に始められるが、止めたい時に止められない」。フィレンツェの政治家、外交官、軍人であり、「君主論」の著者として知られる政治思想家マキアベリの言葉です。ロシアによるウクライナ侵攻はマキアベリの警句どおりの展開になっています。
如何なる理由があろうと、一般市民殺傷、軍事力による現状変更、原発施設攻撃等の暴挙は許されません。ロシアを厳しく非難するとともに、ウクライナ国民に連帯の意を表します。
しかし、民族問題を内包する戦争の深層は当事者以外には理解し難いものです。日本在住のウクライナ人がTVインタビューで「ロシアがウクライナと戦争するのは、東京と京都が戦争するのと同じだ」と述べていたことが印象深いです。
モスクワとキエフ間は約800km。東京―広島ぐらいの距離です。そして、歴史的にはキエフ公国はロシアのルーツと言えます。
ウクライナにはウクライナ人、ロシア人、ポーランド人等が居住し、民族的には単一ではありません。ソ連はロシア帝国からウクライナを解放しましたが、その後はソ連共産党がウクライナを支配しました。
ソ連崩壊後、ロシアは旧ソ連内の国家独立を認めたものの、その前提はEUやNATOに加盟しないことでした。
2014年2月、EUとの政治貿易協定締結を見送った政府への反発が強まり、親露派ヤヌコヴィッチ大統領が失脚。この事態を受けて3月、ロシアがウクライナ国内のロシア系住民保護を名目にクリミア半島侵攻。5月、ロシアと対立する資産家ポロシェンコが大統領に就任し、親米政権を樹立しました。
2019年、そのポロシェンコを破ってやはり親米欧、NATO入りを企図するゼレンスキー大統領が誕生。今回のロシアの暴挙へとつながりました。
この深刻な事態の背景を考えるうえで「文明の衝突」が参考になります。「文明の衝突」という概念は1993年、米国の政治学者サミュエル・ハンチントンが同名論文を雑誌「フォーリン・アフェアーズ」に発表して登場。同論文がベースとなったハンチントンの著作「文明の衝突と世界秩序の再創造」(1996年)によって確立しました。
ハンチントンは冷戦後の国際紛争は文明間対立が原因となり、とくに文明と文明が接する断層線(フォルト・ライン)で紛争が激化しやすいと指摘。2001年の同時多発テロ事件やそれに続くアフガニスタン紛争、イラク戦争を予見しました。
ハンチントンは主要文明を概ね次のように分類しています。誕生順に列挙すれば、ヒンドゥー(BC20世紀)、中華(BC15世紀)、イスラム(AD7世紀)、西欧(AD8世紀)、ビザンチン(AD16世紀)の各文明です。ビザンチン文明とは東方正教の支配域を指します。
西欧文明と土着文明が融合したラテンアメリカ文明、多様なアフリカ文明は主要文明に分類できないかもしれないと述べています。一方、日本文明(AD2世紀から5世紀)は中華文明から派生した単独国の孤立文明と類型化しています。
ハンチントンは、19世紀から20世紀に世界の中心であった西欧文明が、21世紀は中華文明、イスラム文明に対して守勢に立たされると予測。西欧文明は、圧倒的優位を誇った先進文明という側面と、相対的に衰弱しつつある衰退途上文明というふたつの側面を有すると指摘しました。
21世紀においても西欧文明が相対的に最強であり続けることが可能である場合でも、その基盤(領土、生産力、軍事力等)の衰退は顕著であり、確実に脆弱化すると予測しています。
こうした状況下、世界の枠組みは、かつてのイデオロギー対立、東西対立を軸とする勢力圏に代わり、「フォルト・ライン」によって再構築され、東西冷戦中にはなかった「フォルト・ライン紛争」が頻発するとしています。
ヒンドゥー、中華、イスラム、西欧、ビザンチンの各文明がその当事者ですが、より大きく括れば、西欧文明と非西欧文明の対立と定義しています。政治的独立を勝ち取った非西欧文明は西欧文明の支配から抜け出すため、西欧文明との均衡を求めようとするからです。
ラテンアメリカ文明とアフリカ文明は西欧文明に対して劣勢であり、かつ依存的であるとして、対立を予測していませんが、今後の発展次第では「フォルト・ライン紛争」に参戦してくる可能性を否定できません。
こうした文脈で考えると、1990年代以降のバルカン半島における民族問題やイスラム原理主義の台頭はハンチントンの予測の範疇と言えます。
中国が尖閣諸島問題の際に、尖閣諸島を「中国の領土」と言わずに「中華民族の領土」と表現したことは、こうした「文明の衝突」「フォルト・ライン紛争」の文脈を意識した言葉の選択です。中華文明全体を鼓舞する国家戦略を推進していると見るべきでしょう。
2.ウクライナの憂鬱
ハンチントンの予想は構造論としては的中していますが、ウクライナ情勢を理解するには文明論の中でロシアをどのように位置づけるかが鍵になります。
ハンチントンが最初に「文明の衝突」を説いたのは1993年です。つまり、東西冷戦が米国勝利で終わり、ソ連が崩壊し、新生ロシアが迷走していた時期です。おそらく、ロシアの西欧文明化を予想していたのではないでしょうか。
後世ハンチントンの指摘が完全に的中したと言われる展開になるためには、今回のウクライナ侵攻が「ロシアの終わりの始まり」であり、ロシアの敗北(プーチンの凋落)という結末を迎える必要があります。
ウクライナは、西欧文明、ビザンチン文明、及びロシアの境界域、まさしく「フォルト・ライン」上に存在しています。
西欧文明とロシアについてはイメージが湧きますが、ビザンチン文明は日本人には馴染みが薄いと思います。世界史好きには興味が尽きない複雑さを極めているのがビザンチン文明です。
330年、ローマ帝国を再統一したコンスタンティヌス帝は都をローマから東方のビザンチオンに移し、その名をコンスタンティノープルと改めました。395年、ローマ帝国を最後に統一したテオドシウス帝が亡くなると、帝国は東西に分裂します。
ローマ帝国の東半分を受け継いだ東ローマ帝国。ビザンテチンに都を移したため、ビザンチン帝国(またはビザンツ帝国)とも呼ばれます。
6世紀前半、農民から皇帝に上り詰めたユスティニアヌスは、ビザンチン帝国最大の領土を築き、古代ローマ帝国並みの地中海支配を再現しました。
ユスティニアヌスの死後、7世紀に台頭したイスラム勢力に押されてビザンチン帝国は領土を縮小。やがてビザンチン帝国はギリシャ化し、ローマ帝国継承国というよりギリシャ人国家の様相を呈しました。
1095年、皇帝アレクシオス1世はローマ教皇に援軍を要請。ローマ教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で十字軍の結成を呼びかけました。
西欧から招聘した十字軍は、イスラム勢力を食い止められないばかりか、1204年には自らコンスタンティノープルを占拠し、ラテン帝国を立てる始末です。
ビザンチン帝国は1261年にラテン帝国を滅ぼしたものの、今度は新興勢力であるオスマン帝国に圧迫されて領土の大半を喪失。そして、首都コンスタンティノープル周辺域のみを支配する小勢力に転落しました。
1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍がコンスタンティノープルを陥落。千年帝国と称えられ、小アジアやバルカン半島を支配したビザンチン帝国は滅亡しました。
ビザンチン帝国の一部及びその外縁域となる現在のウクライナは、この間、キエフ大公国等の歴史を刻んでいましたが、1240年代にモンゴル帝国に滅ぼされました。
その後、ポーランド、ハンガリー、ドイツ騎士団、リトアニア等の支配と影響を受けながら15世紀を迎え、上述のビザンチン帝国滅亡の時期を迎えます。
やがて、コサックと呼ばれる武人共同体が誕生。ウクライナは17世紀までのコサック時代を経て、18世紀になると今度は北方ロシア帝国の影響を受けるようになります。
そもそもウクライナとは「辺境」を意味する言葉であり、ビザンチン帝国、ロシア帝国、ハンガリー、ポーランド等から見て、そういう位置にあった地域です。
1917年、2月革命でロシア帝国が崩壊すると、1918年にウクライナ人民共和国が誕生。しかし、まもなくロシア赤軍が首都キエフを占領。以後、第2次世界大戦時にはドイツが一時キエフを占領。紆余曲折を経つつ、20世紀の過半をソ連の一員として過ごします。
しかし、それはロシア帝国から解放されたものの、今度はソ連共産党に支配されたに過ぎず、古代、中世、近世と同様に、地政学的なウクライナの憂鬱は変わりませんでした。
そして迎えたのが1989年の「ベルリンの壁」崩壊、1991年のソ連崩壊とウクライナ独立でした。ウクライナは、中世のキエフ大公国崩壊以来、史上最大の領土を獲得しました。
3.クリミア・プラットフォーム
1991年、ソ連から独立したウクライナは独立国家共同体(CIS)に参加。独立後も基本的に親露体制が続いたものの、徐々に欧米側の影響を受けます。
2004年の大統領選挙に対する抗議運動に端を発し、2005年1月、親欧米派ユシチェンコ大統領が誕生。抗議運動のシンボルカラーから「オレンジ革命」と呼ばれました。ユシチェンコは抗議運動の過程で毒を盛られて顔が変形したことが報道され、よく記憶しています。
ロシアは天然ガス価格引上げなどで親欧米政権を圧迫し、2006年6月の選挙でユシチェンコ大統領派が惨敗。これを受けてやはり親欧米的なティモシェンコ派が台頭。ニュースで流れるティモシェンコの金髪三つ編みの容姿もよく覚えています。
紆余曲折を経て8月に親露派ヤヌコヴィチ内閣が発足。親欧米派ユシチェンコ大統領と親露派ヤヌコヴィチ大統領の対立が続き、12月にはティモシェンコ内閣が発足。親欧米派と親露派の鬩ぎ合いが続きます。
2010年の大統領選でヤヌコヴィチとティモシェンコが激突。決選投票の結果、ヤヌコヴィチが勝利し、親露派が政権を奪還しました。
2013年11月、ヤヌコヴィチ政権がEUとの政治貿易協定調印を見送ったために親欧米派による反政府運動が勃発。2014年1月、武力闘争も辞さない強硬派と治安部隊が衝突し、2月にヤヌコヴィチ大統領は失踪。大統領が解任され、大統領選繰上げ実施が決まりました。
親露派政権崩壊を理由に3月1日、ロシア上院がクリミアへの軍事介入を承認。プーチン大統領はウクライナの極右民族主義勢力からクリミア半島内のロシア系住民保護を名目に侵攻を開始。
ロシア系住民の中には侵攻を歓迎する者も少なくなく、ロシアはウクライナ国内法を無視してクリミアのウクライナからの独立とロシア編入を問う住民投票を実施。プーチン大統領は賛成多数を根拠にクリミア独立とロシア編入を表明。5月にはウクライナ東部のドネツィク州、ルガンスク州の独立を宣言する勢力が出現。
欧米諸国や日本はクリミア独立とロシア編入は無効と主張。ロシアに対する経済制裁も実施しました。
2014年3月、ウクライナ東部・南部、特にドネツィク州等でロシア特殊部隊の支援を受けた分離独立派武装勢力が州庁舎や警察などを占拠。政府側は武装勢力をテロリストと見なし、事実上の戦争状態に突入。
ウクライナ及び日本を含む欧米諸国は、ロシアが武器供与、兵力投入等で関与していると非難する一方、ロシアは自国民がロシア系住民を自発的に支援していると反論。
2014年6月、親欧米派ポロシェンコが大統領に就任。米国人を閣僚入りさせ、それまで以上の親米政権を樹立。東部におけるロシア系武装勢力との戦争が続きました。
9月、ベラルーシのミンスクでウクライナ、分離独立派武装勢力、ロシア等の代表者によって停戦と政治解決を目指す合意が成立。ミンスク合意です。
10月、選挙で親欧米派が勝利。ミンスク合意のあとも戦闘は続き、この年の段階で、7月に発生したマレーシア航空機撃墜事件等も含め、民間人死者は5000人以上。欧州では旧ユーゴスラビア内戦以来の死者数です。
2019年、やはり親欧米派のゼレンスキー大統領が誕生。2021年3月、クリミア半島の占領解除とウクライナへの再統合をめざす国家戦略を承認し、国際的な枠組み「クリミア・プラットフォーム」を発足させ、ゼレンスキー大統領はクリミア奪還計画を進めていました。
日本では今回のロシアのウクライナ侵攻は唐突に思えたかもしれませんが、以上の一連の経過の流れの延長線上にあります。
2022年2月24日、プーチン大統領が国民向けテレビ演説で「特別な軍事作戦を実施する」と表明。その後、ウクライナ侵攻が始まりました。
「文明の衝突」時代を乗り切るためには情報が重要です。すなわちインテリジェンスです。必ずしも諜報機関という意味ではありません。国際情勢をよく知るための「情報」です。
インテリジェンスの収集、分析対象となるものは、独特の用語で呼ばれています。ひとつは「ヒュミント(Human Intelligence、HUMINT)」。人的情報源から得られるインテリジェンスです。「シギント(Signals Intelligence、SIGINT)」は会話や信号の傍受によるインテリジェンス。「イミント(Imagery Intelligence、IMINT)」は画像によるインテリジェンス。衛星や偵察機等の手段を駆使して収集された画像から生産される情報も含まれます。
いずれも重要ですが、「文明の衝突」「フォルト・ライン紛争」を予測し、適切な回避行動をとるためには「オシント(Open Source Intelligence、OSINT)」の有効活用が鍵となります。
「オシント」とは報道や研究論文等の公開情報から得られるインテリジェンスです。世界中のニュースやレポートを丹念に収集、分析すると、自ずと様々な知見が得られます。
国家であれ、企業であれ、個人であれ、激動する国際情勢の中を適切に舵取りするためには「オシント」能力を向上させることが極めて重要です。(了)