コロナ禍は収束の兆しが見られません。おそらく根絶されることはなく、インフルエンザのように共存していくしかないと思います。変異の頻度が高いのがコロナウイルスの特徴であり、変異に伴ってワクチンの有効性が低下したり、ワクチンを接種しても再感染することがわかっています。予測できること、わかってきたことを踏まえると、要するに治療薬が重要です。ウイルスの特徴がさらに解明され、治療薬が発明されることが期待されます。
1.臥雲辰致
日本企業による治療薬発明が期待されるところですが、依然として日本製ワクチンができていない現実、医薬品の開発力が劣化している現実等を考えると楽観できません。発明や科学技術の権利が十分に保護育成されてこなかった日本の現実が影響しています。
日本で最初の発明保護制度は1885(明治18)年の専売特許条例です。条例に触発されて、多くの発明家、産業人が誕生しました。
最も典型的な発明家が豊田佐吉。言うまでもなく、自動織機を発明した今日のトヨタのルーツです。
豊田佐吉は1867(慶應3)年、静岡(現在の湖西市)生まれ。父親は腕の良い大工。この地方は「ハタゴ」と呼ばれる手織り機で遠州木綿を作る産地であり、豊田家でも母親が機織りをしていたそうです。
佐吉19歳の時に専売特許条例が公布され、伝記によると、佐吉は村の夜学校で「これからは発明者の権利が保護される」ことを知り、自分の進路を決断。上京して発明家としてスタートを切ります。因みに、夜学校とは青年を対象にした自主的な勉強会です。
以来、研究開発・発明活動に没頭。1890(明治23)年、木製の人力織機「豊田式人力織機」を開発し、翌年特許を取得。佐吉24歳のことです。
佐吉は既にその時点で「将来は人力ではなく動力による織機の時代が来る」と予想し、以後の発明につながっていきます。
明治維新直後の日本は輸出するものが乏しく、金や外貨がドンドン流出。心ある多くの人が危機感を抱き、それぞれの考えで殖産興業に邁進しました。
最初に輸出品として頭角を現したのが陶磁器。その立役者は江戸で武具商を営んでいた森村市左衛門(6代目)。先祖は佐吉と同じ静岡(現在の菊川市)がルーツです。
1866(慶應2)年、幕府は学術修養や貿易のための海外渡航を許可。市左衛門は弟を渡米させ、海外貿易の端緒を開きます。
ニューヨークで雑貨屋を出店。骨董品、陶器、団扇、提灯等を輸出。やがて陶磁器のディナーセットやコーヒーカップを生産・輸出するようになり、その後の森村グループ(日本ガイシ、ノリタケ、日本特殊陶業等)に発展していきます。
その次に主要な輸出品に躍り出たのが繊維。明治初期は、絹織物が輸出の6割以上を稼ぐ一方、綿糸、綿布、毛織物の輸入が輸入全体の半分。このため、絹業を伸ばし、綿業・毛業を近代化することが急務でした。
そのため、政府は官営工場を創業し、産業・企業育成を図ります。1872(明治5)年に絹業の富岡製糸場(群馬)、綿業の堺紡績所(大阪)、1879(明治12)年には毛業の千住製絨所(東京)が設立されました。
こうした繊維産業の勃興と密接に関係しているのが専売特許条例です。その契機になった人物は臥雲辰致(がうんときむね)。1842(天保13)年、長野(現在の安曇野市)生まれの辰致は一般にはあまり知られていません。
辰致も殖産興業を目指したひとり。綿業の生産性向上、近代化を企図し、1873(明治6)年に「ガラ紡」を発明しました。
「ガラ紡」とは、回すとガラガラ音がするのでそのように呼ばれた機織り機。西洋からの輸入機織り機に比べて廉価で、かつ手作業の4倍の速さで糸を紡げたことから、爆発的に普及。全国で模倣されました。
1877(明治10)年の第1回内国勧業博覧会で最高賞を受賞。しかし、4年後の第2回には大量の模倣機が出品される一方、発明者の辰致は生活苦に喘いでいました。
その事態を見かねた農商務省の1人の官僚が発明保護の必要性を実感し、1885(明治18)年、専売特許条例を創設しました。因みにその官僚とは、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任する高橋是清です。
2.特許制度史
英語の「patent(特許)」の語源はラテン語の「patentes(公開する)」。中世ヨーロッパでは、王が報償・恩恵として特許状(letters patent)を臣民に付与。商工業や発明の独占権を与えたと言われています。
1421年、ベネチア王国はブルネレスキ(建築家・彫刻家・金細工師)に特許を付与。歴史上確認できる最古の特許です。そして1474年、世界最初の成文特許法である発明者条例を公布。
1624年、英国議会は専売条例を制定。今日の特許制度に至る基本的な考え方を明確化。ワットの蒸気機関(1769年)、アークライトの水車紡績機(1771年)等の画期的発明につながり、産業革命を起こす背景となりました。
英国から独立した米国。1787年連邦憲法において「科学及び有用な技術の発明者に対して、一定期間の独占権を与える」ことを明文化。憲法のこの規定に基づき、1790年、特許法が制定されました
フランスでは1791年、ドイツでは1877年に特許法制定。列強諸国に特許制度が徐々に広がり、特許制度の考え方、枠組みの世界(西洋)標準が形成されていきます。
この間、日本では1721(亨保6)年の新規法度によって「新しいものを作ることは一切禁止」というお触れ。新しい事物の出現を忌避する幕府の方針です。
しかし、1860(万延元)年、咸臨丸で渡米した使節団が米国の近代社会を見て驚愕。米国特許庁も視察した団員の中には福沢諭吉も加わっていました。
幕末、外国人との交易や西洋技術の入手によって一旗揚げようと考える人々が浦賀、横浜、神奈川等の開港地に殺到します。
静岡(下田)出身の下岡連杖(しもおかれんじょう)は250両もの大金を投じて写真器を入手。日本人で初めて写真技術を習得し、江戸で写真店を開業。しかし、競争相手が次々と現れ、元手を回収できない状況に追い込まれます。
こうした事態を知った岐阜出身の幕臣、神田孝平(後に貴族院議員等)は、新しい技術の伝習者を保護する必要性を説き、米国の特許制度を詳しく調査します。
明治維新になり、新政府は殖産興業に注力。株仲間(問屋カルテル)等、旧幕時代の経済制度を廃す一方、殖産興業に資すると考える諸施策に腐心。尺貫法統一、博覧会開催、北海道開拓等がその代表例です。
こうした中、特許制度についても維新直後から検討され、1871(明治4)年、日本最初の特許法である専売略規則が公布されたものの、当時の日本は技術水準が低く、1件の登録・官許もないまま翌年停止しました。
しかし、新しい産業・企業を興し、輸出振興を図るために、特許制度創設を求める声は再度高まっていきます。
そして1885(明治18)年、冒頭に述べたような経緯で専売特許条例公布。1888(明治21)年には審査主義を確立した新たな特許条例公布。1899(明治32)年、特許法が制定され、パリ特許条約にも加入しました。
特許1号は東京在住の堀田瑞松による「堀田式錆止塗料とその塗法」。因みに、特許1号から100号までの出願者は平民100人、士族21人(延べ人数)。東京在住者による特許が59件、他府県在住者が41件でした。
当時の文献によると、地方在住の特許取得希望者あるいは取得者は、続々と東京に集まってきたそうです。上京した豊田佐吉もその1人ということです。
さて、現代の日本。産業や企業の「ガラパゴス化」が懸念されて久しく、コロナ禍はデジタル化や創薬等々、様々な分野での日本の遅れを白日の下に晒しました。さて、ここからどう巻き返すかです。
3.高橋財政
専売特許条例を創った高橋是清ですが、高橋翁自身は大恐慌後の日本において、その当時の経済状況打開のための金融財政政策の枠組みを発明したと言えます。
高橋是清は幕府御用絵師の庶子として生まれ、幕末の1867年に13歳で渡米し、奴隷労働をしながら勉強して2年後に帰国。身に着けた英語力が役立ち、英語教員などを経て農商務省の役人になりました。
高橋是清は特許条例を創った後、1889年末に銀山経営のためにペルーに渡り、帰国後の1892年に日本銀行に入ります。一連の職歴に英語力が役立っていたことは想像に難くありません。実に波乱万丈です。
その後、1906年横浜正金銀行頭取、1911年日銀総裁、1913年大蔵大臣、1921年総理大臣と約30年の間に高橋是清の定番的印象につながっている職歴を経て、大恐慌後の1931年12月に4回目の大蔵大臣就任。以後、1936年2月までの大蔵大臣時代に後世「高橋財政」と呼ばれる足跡を残しました。
首相、蔵相、日銀総裁の3つを務めた人は、歴史上、高橋是清ひとりです。4回目の大蔵大臣就任後、途中退任と再任、再々任もあったので、合計6回大蔵大臣を務めています。
「高橋財政」は「日銀の国債引受による超金融緩和と財政拡大」というイメージで受け止められていますが、実際はそれほど単純ではありません。
「高橋財政」及びその後の「戦時財政」時代を通して、国債政策がポイントです。今日の国債政策がその当時と同じような展開になっています。
少々専門的ですが、「高橋財政」及び「戦時財政」における国債政策の特徴、換言すれば、終戦まで国債が混乱なく消化された要因を整理します。
第1に、1932年7月に大蔵省が国債簿価公定制を導入したこと。
国債保有者(主に金融機関)の簿価を公定するという意味は、金融機関決算において含み損や特別損失が出ない簿価が保障されたということです。
第2に、1937年に日銀が以下の2つの対応を行ったこと。因みに、1937年は高橋是清が暗殺された後です。
7月15日、日銀は国債担保貸出金利を引下げ。それ以前は公定歩合よりも日歩1厘高かった国債担保貸出金利を公定歩合と同一水準(9厘)に引下げ。当時の国債の日歩は1銭であったため、購入する国債を担保に日銀から購入原資を調達することで、日歩1厘の利鞘を確保。つまり、買えば必ず儲かる仕組みを導入しました。
8月10日、無条件国債買取制度を開始。金融機関から国債の売却希望が提示された場合には、日銀が売戻なしの無条件で全額購入することを約束しました。
以上の大蔵省、日銀の対応により、金融機関は国債を購入すれば必ず儲かり、決算上も含み損は発生せず、売却したくなれば全額日銀に売却できる枠組みが用意されました。
現在の日銀が行っている「国債の購入者、所有者が損をしないようにする」という長短金利操作(イールドカーブコントロール)、及び金融機関から国債を大量に購入し続けるという枠組みは、「高橋財政」及び「戦時財政」時代の枠組みに似ています。
「高橋財政」時代の展開を整理しておきます。高橋是清が4回目から6回目の蔵相を務めた期間、その政策対応は前半と後半で大きく変化しました。
前半(就任時から1935年6月)は、「金輸出再禁止、超緩和の金融政策、財政拡大」によって、高い成長率と物価上昇率を実現しました。
ところが、過度の予算拡大と物価上昇を是正すべく、1935年6月25日、翌年度(1936年度)の予算及び国債発行(日銀引受)の縮減方針を発表。
軍事費も例外ではなかったことから、後半は軍部との対立が先鋭化し、1936年2月26日の「二・二六事件」で暗殺されました。
「二・二六事件」後の広田弘毅内閣の下、1936年3月9日、高橋是清が前年6月25日に発表した予算・国債発行縮減方針は撤回されました。
「高橋財政」及びその当時の日銀の金融政策の枠組みを推奨する論者の主張は、この前半の状況を成功と評価し、それに類する政策を現在の日本において行うことを提言。
これらの論者の主張は、国債の日銀引受からの出口が「二・二六事件」以後、軍部によって塞がれたことが前半の政策の事態収拾を困難化し、それがなければ高橋財政は成功裡に終わっていたはずとの論理で組み立てられています。
しかし、現在の異常な緩和は、対GDP比でみれば既にその当時を上回る超金融緩和状態になっており、軍部が存在しなくても収束は容易ではありません。また、軍部責任論の主張には、以下の点で大きな矛盾と誤解があります。
現在の日銀の政策と類似した対応は、「二・二六事件」以後に採用されています。つまり、現在の日銀は「戦時財政」下に採用された対応を行っているということです。
最近ではあまり聞かれなくなりましたが、アベノミクスの「三本の矢」というものがありました。大胆な金融政策、大規模な財政支出、成長戦略です。
最初の2本が「高橋財政」のアナロジーから組み立てられていることは明らかであり、それを推奨していたのが、現在の日銀総裁と前副総裁。
「二本目の矢」である大規模な財政支出に関しても、「高橋財政」及び「戦時財政」時代と比べると、大きな矛盾と誤解を孕んでいます。
「高橋財政」期に財政拡大をしたのは1932年(当初予算の前年比はプラス32.0%)、1933年度(同プラス15.6%)のみ。翌1934年度は前年比マイナス。1935年には予算・国債削減方針を打ち出して暗殺されてしまいました。
暗殺後の1937年度以降は「戦時財政」期に入り、終戦まで予算が急膨張。マネタリーベースも「高橋財政」期は前年度比一桁の伸びに留まっていたのに対し、「戦時財政」期はやはり急膨張。
しかし、アベノミクス下、現在まで続くマネタリーベースの増加率は「戦時財政」期をはるかに上回り、まさしく「異次元」の緩和を行っています。
2013年春、「マネタリーベースを2年で2倍にして物価上昇率2%を実現する」「できなければ辞任する」と豪語していた前副総裁でしたが、以後、8年以上経って、マネタリーベースは4倍以上になり、物価上昇率は1%未満。この状況を遺して任期満了で退任し、総裁は2期目も続投。現在に至っています。
おまけに一昨年来のコロナ禍。既に異常な金融緩和を行っていたので、そこからさらに財政支出拡大、日銀による国債購入拡大をせざるを得ず、加えてオリンピックに伴う財政負担増。
もはや従来の考え方では対応できない状況を受け入れ、これまでの常識を度外視した政策手段を発明せざるを得ないでしょう。(了)