【Vol.388】国会に求められる弁証法的な生産的論戦

来週の衆参予算委員会開催が決定。生産的な議論を期待しています。メルマガ前号で取り上げた古代ギリシャ以来の「正義論」の系譜。何が「正義」か、議論しても結論づけられないとお伝えしたところ、古代ギリシャ以来の議論術に関するご質問をいただきました。難解ですが可能な範囲でお答えします。難解な内容は、何回聞いても難解です。


1.ソフィスト

安倍首相はよく「なかったことを証明すること」は「悪魔の証明」との口吻を述べますが、正確には「悪魔の証明は」は中世ヨーロッパの法学論争において、土地の所有権の証明に関する考察の中で誕生した概念です。

ある物の所有権を複数の人間が主張する場合、対立相手の主張を否認し、自分の所有権を証明するとともに、自分が所有権を譲り受けた前の所有者の所有権の証明を求められます。

前の所有者の所有権を証明すると、今度は前の前の所有者の所有権、その次は前の前の前の所有者の所有権と、「無限の証明」を求められるため、それは不可能だということから「悪魔の証明」と言われたそうです。

これはメルマガ193号(2009年6月11日)で紹介した「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と類似します。

「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」は論理学の定理のひとつ。「Aが正しいことを示す根拠はB、Bの根拠はC、Cの根拠はD、Dの根拠はE」という具合に根拠の追求は終わることがなく、Aが?でないことを絶対的には証明できないことを示唆します。時として「Dの根拠はA」と最初に戻ることは循環論法と言います。

ミュンヒハウゼンは18世紀ドイツの男爵。話好きの男爵は作り話も交えながら自分の体験談を来客に話して楽しませました。

話があまりにも面白いので、それをまとめた「ホラ吹き男爵の冒険」が1781年のベルリンで出版されました(著者不明)。その中には、底なし沼に落ちた男爵が自分で自分の髪を引っ張り上げて脱出したエピソードもあり、不可能を可能とする矛盾を語っています。

さて「悪魔の証明」の原義は所有権の「無限証明」。後に転じて「なかったことを証明する」喩えとして誰かが援用し始めたようです。

森友学園にしろ、加計学園にしろ、今回の事案は現に行われた行為(土地の値引き売却、学部新設認可)に対する論争です。「悪魔の証明」ではありません。

現に行われた値引きや学部新設認可の過程で不透明な客観的事実がいくつも指摘されているわけですから、その事実を否認するために議論することは「悪魔の証明」ではなく、自らの潔白の証明、言わば「天使の証明」です。

客観的事実に基づき、噛み合った議論を期待していますが、安倍首相の議論の手法には特徴があります。通算5年以上にも及ぶ首相在任中に身についた手法もあれば、元々の安倍首相の性格や個性が反映した手法もあります。

例えば、最も浸透している手法は「野次に反応すること」。野次を誘導する言動を自ら行い、その野次に対して「野次はやめてください。静かでないと答弁できません」と長々と語って時間を稼ぐ手法です。お見事。

議論術として本質的ではないこうした手法は別として、議論術そのものの中にも安倍首相の特徴が認識できます。

議論術を整理することは、一般論としてディベートの構造やスキルについての頭の体操にもなりますので、少々お付き合いください(ここからがご質問への回答です)。

そもそもディベートの発端は古代ギリシャに遡ります。対立する意見を論じ合うことで、結論を出すための民主主義的手法として生み出されました。

その手法は2つに大別されます。ひとつは、ソクラテス等の哲学者によって担われた「問答法」「弁証法」。もうひとつは、ソフィスト達によって推奨された「弁論術」「論争術」。

このふたつ、何が違うのでしょうか。そこが問題です。それを整理するうえで、ソフィストについて説明しておきます。

ソフィストは人名ではなく職業名です。金銭を受け取ってディベートのテクニックを教授した言わばインストラクター。原語の意味は「教えてくれる人」ということです。

「問答法」「弁証法」に重きを置く哲学者はソフィストが流布する「弁論術」「論争術」を批判しました。それはそうでしょう。単なるテクニックであり、民主主義を深め、進化させるものではないからです。むしろ、民主主義を劣化させると懸念しました。

批判の対象となった「弁論術」は「修辞学」「雄弁術」とも言います。発言や演説を魅力的、説得的に見せるため、身振りや発声方法等も重視。言語、文脈、演技等の総体としてのスキルを説きます。

「論争術」のギリシャ語の語源は「エリス」。不和、争い、口論等を意味します。語源から明らかなように、建設的なディベート術ではありません。「論争術」は「詭弁」とほぼ同義に扱われました。

「詭弁」は意図的に誤りである論理展開を用いて議論すること、それによって導き出された結論、あるいはその論理過程そのものを指します。

「詭弁」の背景には発言者の「欺く意志」があり、意図的でない「誤謬」等とは区別されます。「詭弁」は発言者の不誠実さが前提です。

安倍首相の議論が「弁論術」や「論争術」の類いにならないことを期待します。では、哲学者が担った「問答法」「弁証法」とはどのようなものでしょうか。

2.弁証法

「問答法」は「ソクラテス式問答法」とも言われます。対立する意見を戦わせ、弁論を行い、その過程で自説の補強と修正、相手の矛盾の指摘等を行います。

普通の議論と同じように思えるかもしれませんが、2つの重要な要素があります。議論を噛み合わせること、どちらか一方が絶対的に正しいことを前提にしないことです。

「弁証法」は、アリストテレスの述懐によってゼノンが創始したと伝わります。相手の意見や主張に質問を投げかけ、それに対する回答にまた質問を投げかけ、それを繰り返すことで妥当な結論や真理に到達しようとするものです。

これも普通の議論と同じように思えますが、やはり2つの重要な要素があります。質問には真摯に回答すること、質問は論理的であることです。

プラトンは「弁証法」のことを「対話」「質疑応答」「問答」とも評しています。つまり、真摯かつ正直に対話すれば、妥当な結論や真理に接近できると考えました。

余談ですが、「弁証法」を創始したゼノンの珍問答はよく知られています。例えば「アキレスと亀」。足の遅い亀が足の速いアキレスの前にいる場合、アキレスは亀に永久に追いつけない。如何に足が遅くとも、瞬間毎に少しは前に進むので、結局アキレスは追いつけないのではないかという思考トレーニングです。

もうひとつは「静止する矢」。飛んでいる矢も瞬間毎にはある1点に静止しています。瞬間から瞬間の間に移動する時間はないので、結局、飛んでいる矢は常に静止しているのではないかという思考トレーニングです。

本題に戻ります。対立する議論が建設的な結論に至るには、二項対立と二律背反の違いも認識しておくことが必要です。

二項対立は、白と黒、水と油、男と女等々の相対立する概念を指す論理学の用語。どちらか一方を正しいと結論づけようとすれば議論は収斂しませんが、中間領域を認め、譲歩し合うことによって一定の結論が得られます。

二律背反は、両立し得ないふたつの命題のことを指す論理学の用語。両立しないのですから、両立させる結論はあり得ません。どちらか一方が間違っている場合や非論理的な場合には二律背反とは言いません。どちらも正しいが両立しない場合が二律背反です。

二項対立に終始し、中間領域の結論や合意に至ろうとしない傾向は、安倍首相だけでなく、多くの国会議員にも見られます。日本の民主主義の特徴かもしれません。

二律背反に関しては、安倍首相の思考回路は整理が必要です。知人に便宜を図ることは人間として当然だ。行政は手続どおりに公正に行われるべきだ。どちらも間違いではありませんので、これは二律背反です。

この二律背反の中には「行政の判断を歪めてもいい」という要素は含まれていません。安倍首相は「行政の判断を歪めていない」と主張するでしょうが、ここは「歪めた」か、あるいは「歪めなかった」か、事実はひとつです。

議論において、意見の違い、意見の対立があるのは当然のことです。しかし、議論が建設的な結論や妥当な落とし所を得るためには、客観的な事実を共有することが重要です。

客観的な事実として提示された証拠に対しては、ソフィストの推奨する「弁論術」や「論争術」ではぐらかそうとしたり、言わんや「野次誘導術」で時間を稼ぐようでは困ります。それでは事実を共有できず、事実か否かを巡って不毛な議論が続きます。

そうした展開に陥るのも日本の国会の特徴です。と言うより、間違いを認めない日本の官僚の「無謬性」が関係します。一度答弁したら、それを否定する客観的事実が出てきても、白い物も黒いと言い続ける厚顔無恥な「無謬性」です。

もちろん、人事権をちらつかせてそれを官僚に強要するのは政治ですが、それに阿る官僚にも驚愕。ソクラテスもプラトンも腰を抜かして言うでしょう。「2500年も経ったのに、民主主義は進歩するどころか、ここまで劣化したのか」。

民主主義のルーツ、古代ギリシャ。最初はうまく機能しましたが、やがて政治的権力を維持獲得するためにデマゴーク(扇動政治家)が登場。ソフィストから詭弁術を教示されたデマゴークは自信たっぷりの雄弁を用いて人々を騙し、議会を無力化していきました。

デマゴークはポピュリズムにつながり、ギリシャは衰退しました。デマゴークやポピュリズムについては、メルマガ371号(2016年11月12日)で取り上げています。ご興味があれば、ホームページのバックナンバーからご覧ください。

3.ディズレリーの名言

議論のスキルはコミュニケーション能力とも関係があります。意図的に議論を噛み合わないようにしている場合はどうしようもありませんが、無意識のうちに、あるいは議論で追い込まれないために本能的に噛み合わない議論に終始している場合も少なくありません。

コミュニケーション戦略を専門とする米国ウェストミンスター大学(ユタ州ソルトレイクシティ)のカーティス・ニューボウルド准教授が興味深いサイトを運営しています。

サイト名は「The VCG(Visual Communication Guy)」。リード文は「魂を活性化するコミュニケーションの知恵(Communication Wisdom to Boost Your Soul)」。

そこには「論理的な間違い集(The Logical Fallacies Collection)」として、議論における30の人格または思考パターンが整理されています。結構笑えます。

日常の会議や議論でも役立ちますが、国会質疑と照らし合わせてみると楽しめます。いくつかご紹介しておきます。カッコ内の数字は「The VCG」上の番号。パターン分けとそのタイトルは僕の個人的主観です。

「破壊的パターン」は、(1)理論的主張をすることなく、もっぱら相手の人格を攻撃。往々にして名前を連呼し、レッテル貼りをする攻撃的タイプ。(3)誰も分からないことや不可解なことを武器に主張する。「宇宙人を見た人はいない。だから宇宙人は存在しない」という主張は典型例。

「我田引水タイプ」は、(2)自分しか体験していない経験や個人的事情を価値があるもののように大袈裟に訴えること。(8)多くの人が信じているという理由で、ある命題が正しいと結論づけること。

「非論理的パターン」は、(4)「昔からそうなのだから正しいはず」という考え方。(5)議論の条件を勝手に解釈して、それを前提に話を進めること。(24)「存在しない」ということの証明を求めること。上述の「悪魔の証明」です。

「感情的パターン」は、(6)脅し文句を議論に持ち込むこと。「校則を守らない生徒は将来、就職できませんよ」と先生がよく使う。(7)特定のトピックについての知識不足を理由にすること。「だって、そんなの知らないじゃない」と揶揄します。(22)「絶対に」「いつだって」「誰しもが」等の絶対的条件を声高に主張すること。

「極端パターン」は、(11)極端で到底受け入れられない2つの選択肢から結論を迫ること。(12)自分にとって都合の良いデータや事実だけを集め、それ以外の不都合なものを無視すること。(17)あらゆる可能性に気を配ることを放棄し、いつも極端な立場をとること。

「陰湿パターン」は、(18)重要な情報には触れないで、あえて誤解を誘うこと。(20)もっともらしく見せかけるために統計を用いること。例えば「84%の人が病院で死ぬ。長生きしたければ退院するべき」という奇妙な論理展開のケースです。

「意図的パターン」は、(25)注意をそらすために議論のテーマを変えること。(26)抽象的な事柄をさも具体的なものとして扱うこと。(27)ある事実から次の事実を連続的に導くことで、結果的に全く正しくない事実を導き出すこと。(28)ごく少ないサンプルから一般論を導くこと。

「子供パターン」は、(30)自分に対する批判に対して、議論とは関係のない別の批判で返すこと。

「噓には3つある。軽い噓はただの噓。重い噓は真っ赤な噓。最も罪の重い噓は政府の噓」。英国の名宰相、ベンジャミン・ディズレリーの名言です。「あった」ことを「なかった」などと強弁することなく、生産的な議論が行われることを期待します。(了)


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