【Vol.381】イスラム教の歴史と中東情勢の複雑性

米国がシリアへのミサイル攻撃を断行。シリアが化学兵器を使用したのであれば言語道断。しかし、確証はない中での攻撃でした。イラク戦争を想起せざるを得ません。イラクの大量破壊兵器保有を理由に開戦したものの、結果的に大量破壊兵器はなかったというイラク戦争。中東及びイスラム圏の実情は複雑難解です。過去のメルマガ(295号<2013.9.15>343号<2015.9.11>348号<2015.11.20>でも取り上げていますが、今回はイスラム教について整理しておきます。


1.信仰と戒律

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を信仰しています。意外に知られていませんが、ルーツを共有しています。

イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教の後に誕生した一神教で、偶像崇拝を排し、神への奉仕を重んじ、信者の相互扶助や一体感を重んじる点が特徴的です。

キリスト教とイスラム教を比較すると、キリスト教は内心の信仰を重視するのに対し、イスラム教は戒律に従った行動を重んじます。

内心は外からはわかりません。そこで、イスラム教では行動を重んじ、毎日5回の礼拝、豚肉・酒の禁止等の戒律を遵守することを信仰の証とします。ユダヤ教も行動を重んじ、その戒律はイスラム教よりも厳格だそうです。

イスラム教では戒律を遵守することを「神に貸しをつくる」と表現し、世界の終末に神から「貸し」を返してもらえると信じられています。

現在、イスラム教徒は世界の総人口の約20%。5人に1人、約16億人と言われています。キリスト教に次ぐ規模です。

よく聞く「ムスリム」は「神に帰依する者」を意味するアラビア語であり、イスラム教徒のことを指します。

ムスリムの居住地域は世界中に広がっており、中東を中心としつつ、西アジア、東南アジア、中央アジア、南アジア、アフリカ、欧州にも多くの信者がいます。

中東、西アジアでは国民の大半がムスリムであり、中にはイスラム教を国教と定め、他宗教を禁じている国もあります。

欧州では、フランスのムスリムは約600万人、人口の約10%。英国でも、ムスリムは国内第2位の規模になっています。

ムスリムの数は信者の多子傾向やアフリカ内陸部等への布教拡大によって、現在も増加を続けています。

日本国内のムスリムの数は定かではありませんが、日本人で最大約5万人、在日外国人で最大約20万人と聞きます。

イスラム教の国々は、歴史的には中国やインドと並び、長らく世界を牽引する先進国でした。軍事的にも17世紀末までは欧州諸国に対して常に優位を維持してきました。

文化面・学術面でもイスラム教は卓越していました。幾何学文様、植物文様、文字文様等によるアラベスクの装飾はイスラム芸術の象徴です。

上述のように、イスラム教では偶像崇拝は禁止。キリスト教会や仏教寺院は偶像(肖像画や神仏像)を祀っていますが、イスラム教のモスク(礼拝所)ではアラベスクで彩ることによって崇高さを表現しています。

アラベスクのような精密な幾何学文様を描くには幾何学(数学)の知識が不可欠。そのため、イスラム世界では自然科学が発達しました。

毎日5回、聖地メッカへ礼拝するためにはその方角を正確に知る必要があります。そのため、天文学も発達しました。宗教と自然科学が共存していたのもイスラム教の特徴です。

余談ですが「アルコール」や「アルカリ性」等の化学用語もアラビア語起源。語頭の「アル」は英語の「The」に当たる冠詞だそうです。

2.イスラム教の歴史

イスラム教の開祖はムハンマド。誕生は西暦570年頃、没年は632年。イスラム教は610年にムハンマドによってはじめられた宗教です。

イスラム教は唯一絶対の神アッラー(アッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者ムハンマドを通じて人々に下したコーラン(クルアーン)の教えに従う一神教です。

アッラーは多くの神々の中の一神でしたが、ムハンマドはメッカ占領(下記)後にアッラー以外の神像を全て破壊。アッラーだけの崇拝を求めました。

610年、ムハンマドはメッカ郊外でアッラーの啓示を受けたと主張し、イスラム教を開創しました。

信者は少しずつ増えたものの、メッカからは弾圧されます。622年、弾圧を逃れるため、信者をメディナ(マディーナ)に移住させます。これをヒジュラ(聖遷)と言い、以後メッカと対立します。

メディナのイスラム教共同体(ウンマ)は現地のユダヤ人と対立し、やがて戦争が勃発します。

ムハンマドは近隣のユダヤ人やアラブ人を次第に制圧し、630年、ついにメッカを占領。カーバ神殿にあった偶像を破壊。そこを聖地とし、アッラーの信仰を求めます。

ムハンマドはメッカ征服を企図していた他の部族も撃破。ムハンマドの名声は広まり、アラビア各地の部族長や指導者が使節を送ってくるようになりました。

こうしてイスラム教がアラビア中に伝播し始めます。折しも、東ローマ帝国やササン朝ペルシア帝国が衰退していた時期でもあり、ムハンマドの勢力は急速に拡大します。

翌々年、ムハンマドは病没。メディナの人々は後継者にアブー・バクルを選び、その地位をカリフと定めました。

イスラム教共同体では宗教指導者と政治的指導者は分離していません。政教一致の体制をとり、その指導者がカリフです。

しかし、アブー・バクルを後継者と認めない有力者が続出。こうした勢力は結託してメディナ襲撃の準備を始めました。

ついに戦争が勃発。アブー・バクル側が勝利し、カリフ制はイスラム教の政治体制として確立。そして、共同体と軍事力の維持のため、略奪品を求めて征服戦を継続しました。

こうしてムスリムによる征服戦争は続き、約10年余で東ローマ領のシリアとエジプトという肥沃な領土を獲得。

636年、3代カリフのウマルは重武装のペルシア軍を撃破。642年、ペルシア皇帝自ら率いる親征軍も撃破。ペルシア領もムスリムの支配下となります。

陸の遠征と並行して、海からも遠征を開始。637年、アラビア半島東部のオマーンからインドに向けて進軍。ボンベイを奪取した後もインド方面への攻撃を繰り返しました。

こうした陸海の遠征によって、イスラム教は各地に広まり、短期間のうちに大規模なイスラム教国を築き上げました。

拡大の過程で内紛も生じ、2代カリフ・ウマル、3代カリフ・ウスマーンは暗殺され、656年、ムハンマドの従弟アリーが4代カリフとなります。

配下のウマイヤ家ムアーウィアが反発し、両者は交戦。661年、アリーは殺害され、ムアーウィアがカリフとなりますが、これを機にシーア派とスンニ派に分裂します。

アリーの支持勢力はムハンマドの従弟アリーとその子孫のみがカリフを継承する資格があると主張してシーア派を形成。因みに「シーア」は「党派」という意味。「シーア・アリー」で「アリーの党派」を意味しました。

ムアーウィアを支持する体制派は「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」という意味でスンニ派を形成。

ムアーウィアはウマイヤ家の伝来地であるシリアを重視し、ダマスカスに遷都。息子ヤジードへのカリフ世襲に腐心。その後約100年弱の期間をウマイヤ朝と呼びます。

680年、ムアーウィアが死ぬと、アリーの息子フセインが蜂起するも、ウマイヤ朝に敗れて戦死。

ウマイヤ朝でも反乱が多発。684年、マルワーンがカリフに就くも、在位1年で妻に暗殺されます。685年、新たにカリフに就いたアブドゥル・マリクの治世で、ウマイヤ朝の混乱は漸く沈静化しました。

708年、北アフリカ一帯を征服。711年、イベリア半島に上陸。現地キリスト教国(西ゴート王国)を滅ぼし、ピレネー山脈を越えてフランスに進軍。やがてキリスト教徒の抵抗が強まり、8世紀中盤、フランスを放棄。その後もイベリア半島は占有しました。

一方、東部でも705年に遠征を再開。サマルカンド、中央アジア、トルキスタン一帯を制圧し、751年には唐軍と交戦、撃破。その後、進軍を支えた将軍が部下に殺害され、イスラム教国の領土拡張は終息します。

3.スンニ派とシーア派

4代カリフ・アリーの子孫は12代目で断絶。そのため、シーア派にとって現在は「イマーム(指導者)」不在の状態。世界の終末直前に最後のイマームが救済のためにマフディー(救世主)となって再臨すると信じられています。

アリーの子孫が断絶するまでの間に、シーア派の中では誰を指導者として認めるかを巡って分派しました。

5代イマームを巡り、ザイドを支持する者とそうでない者に分派。前者はザイド派と呼ばれ、現在ではイエメンに多く見られます。

7代イマームとしてムーサ支持派とその兄イスマイール支持派に分派。ムーサ支持者は十二イマーム派と呼ばれ、現在のシーア派の約85%を占め、イラン、イラク、バハレーンなどに多いそうです。イスマイール派は東アフリカや南アジアに多いと聞きます。

スンニ派とシーア派は指導者の系譜以外に何が違うのでしょうか。調べたところ、シーア派は相対的に内心の信仰を重視する一方、戒律についてはスンニ派の方が厳格。

スンニ派は偶像崇拝を厳しく禁止。一方、シーア派は4代カリフ・アリー(シーア派にとっての初代イマーム)等の肖像画を奉じたり、聖者廟(墓)を詣る習慣があります。また、戦死したフセイン追悼の宗教行事(アーシューラ)があります。

スンニ派もシーア派も断食・巡礼・礼拝等の方法に違いはほとんどありません。なお、異端少数派(アラウィ派、ドルーズ派等)には巡礼や断食を行なわない派もあります。

歴史的にシーア派を支えてきたのはイランです。一方、両派が対立しているのはイラク。現在のイラクはシーア派ですが、かつて(フセイン大統領下)ではスンニ派でした。

同じ派の中でも、学派の違いもあります。トルコ、シリア、イラク、エジプト、インド、東ヨーロッパ、中央アジアでは、最も寛容で近代的とされるハナフィー学派(スンニ派)が主流。同学派はオスマントルコ帝国の公認学派でした。

イランはジャアファル学派(シーア派)、アラビア半島は戒律に最も厳格なハンバル学派(スンニ派)、マグリブはマーリク学派(スンニ派)、東南アジア、東アフリカはシャーフィイー学派(スンニ派)が多いそうです。

シリアやイラク等ではシーア派とスンニ派が対立しているような報道も見受けますが、両派は宗教的正当性を巡って争っているのではありません。

両派の対立が表面化したのはイラン革命(1979年)以後です。イラン革命は、亡命中の指導者ホメイニ師を帰国させ、親米パーレビ政権を打倒した政変。詳しい経緯はメルマガ348号(2015年11月20日号)で整理してあります。ホームページからバックナンバーをご覧ください。

イラン対岸の湾岸諸国は国内に多数のシーア派住民がいるため、シーア派によるイラン革命が自国に影響することを危惧しつつ、今日に至っています。

現在、イラン、イラク、バーレーン、アゼルバイジャンでは、人口的にはスンニ派よりシーア派が多数派。シリア、レバノン、湾岸諸国、イエメン、アフガニスタン等にもシーア派住民が多数います。

その中でイラン(及び現在のイラク)のみがシーア派政権ですが、それ以外の国の政権は基本的にスンニ派。つまり、シーア派は人口的には多数派でも政治的には非政権側。そのため、シーア派住民は相対的に貧困層が多く、経済的にも劣位に立たされています。

つまり、両派の対立は宗教的理由ではなく、政治的・経済的理由です。スンニ派政権にとってシーア派住民は常に不安定要因であり、両派の対立が結果的に宗派抗争に発展する結果を招いています。

米国空爆を受けたシリア。アサド大統領率いるアラウィ派はシーア派系少数派。反政府勢力は多数派のスンニ派。

反政府勢力には、スンニ派に加え、世俗派、在外シリア人、自由シリア軍(離反兵)、ヌスラ戦線(アルカイダ系武装過激派)なども参画。内部抗争も絶えません。

一方、政府側をシーア派の大国イランが支えます。イランとシリアは反イスラエルを掲げる「抵抗の枢軸」の中心。レバノンのシーア派組織ヒズボラもアサド政権を支援。

さらに、イランとシリアは旧ソ連時代からのロシアの軍事的友好国。シリア沿岸にロシアの唯一の地中海海軍基地(タルトス)を擁していることも影響しています。

「抵抗の枢軸」に「抵抗」しているのは親イスラエル・親米のサウジアラビアやカタール。サウジアラビアはスンニ派の大国。また、米国と足並みを揃えたフランスにとって、シリア、イスラエルは有力な武器輸出先。

この複雑難解なシリア及び中東情勢に、日本が安易に与することは結果的に国家及び国民のリスクを高めることになるでしょう。

(了)


戻る