十一月です。寒い日が増えました。くれぐれもご自愛ください。
二〇二二年から「尾張名古屋・歴史街道を行く」をお送していますが、今年は名古屋城下町を起点に広がる脇街道についてお伝えし
てきました。今月は尾張四観音道についてです。
かわら版は来月が最終回になります。長らくのご愛顧、ご愛読、
ありがとうございました。
尾張四観音道
尾張四観音とは、荒子観音、甚目寺観音、龍泉寺観音、笠寺観音を指します。いずれも開基から千数百年以上を経た古刹です。徳川家康が名古屋城築城に際し、城の鬼門の方角にある四寺を鎮護寺に定めました。
龍泉寺は下街道沿いの守山にあります。一七五五年の龍泉寺記は、延暦年間(七八二~八〇六年)に最澄が熱田神宮参籠中に龍神のお告げを受け、馬頭観音を本尊として祀ったのが始まりと記しています。
空海も熱田神宮参籠中に熱田の八剣のうちの三剣を龍泉寺に埋納したと言われ、これにより龍泉寺は熱田の奥の院とされてきました。最澄、空海の両方の縁起がある龍泉寺です。
龍泉寺は庄内川と崖に囲まれた高台にあり、濃尾平野を一望できるため古くから戦の際に陣が置かれ、龍泉寺城とも呼ばれます。
一五五六年、織田信行が城を築いたほか、一五六〇年の桶狭間の戦いの直前、織田信長が一隊を龍泉寺に派遣しました。
一五八四年の小牧長久手の戦いでは、小幡城に進出した徳川家康に対峙して羽柴秀吉が陣取りました。
甚目寺は萱津宿の西、津島街道沿いにあります。
五九七年、伊勢国の海人豪族である甚目龍麿(はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかりました。近くの浜に堂宇を建て、その観音像を安置したのが始まりです。
鎌倉時代には五百坊を擁し、約三千人の僧がいたと伝わります。戦国時代には織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川義直から庇護、寄進を受けて繁栄しました。
荒子観音は七二九年、泰澄の開創と伝わります。泰澄は加賀白山の開祖とされる伝説的人物です。寺号は荒子観音寺です。
荒子観音は前田利家の菩提寺です。荒子観音南にあった荒子城で生まれた利家は、一五七六年に本堂を再建し、自身の甲冑も寄贈しています。
荒子観音には多数の円空仏が祀られています。円空は何度も荒子観音を訪れ、千二百体を超える仏像を彫って残しました。
全国で確認されている円空仏約五千四百体のうち、荒子観音に千三百体近く、約四分の一が祀られています。荒子観音の山門仁王像
は最大の円空仏です。
七三三年、僧善光(または禅光)が呼続の浜辺に打ち上げられた夜な夜な光を放つ霊木で十一面観音像を彫り、その像を祀る小松寺を建立したのが始まりと伝わるのが笠覆寺(りゅうふくじ)です。
その後約二百年を経て、堂宇は朽ち、観音像は雨露に晒されていました。ある雨の日、旅の途中で通りかかった藤原兼平が、雨に濡れる観音像を笠で覆っていた娘を見初め、都へ連れて帰り、玉照姫と名付けて妻としました。九三〇年、兼平と玉照姫は観音像を祀る寺を建立し、笠で覆う寺、笠覆寺と名付けました。
一二五一年に造られた境内の鐘楼には、尾張三名鐘に数えられる梵鐘が吊るされています。
尾張四観音をつなぐ道
尾張四観音を結ぶのが四観音道です。このうち笠寺と竜泉寺を結ぶ道の一部は覚王山近辺に残っており、地名にもなっています。道標も一基残っており、「東やごとひらばり、西あらこ、南あつたかさでら、北せとりゅうせんじ」と刻まれています。
笠寺と龍泉寺を結ぶ尾張四観音道は、それぞれの方向や場所によって龍泉寺街道、笠寺街道と呼ばれていました。
笠寺から北上する道は塩付街道と重なります。塩付街道は星崎で作られた塩を名古屋城下に運ぶ道です。
笠寺台地、御器所台地を進み、安田辺りで進路を北東に向け、松林寺の脇、丸山神明社の前を抜けて広小路に出ると覚王山です。江戸時代の地名は東山村田代です。
そこから日泰寺横を通って、鉈薬師、上野天満宮などを横目に山口街道に合流します。
起点である名古屋城東大手門辺りが山口と呼ばれていたうえ、街道が瀬戸の山口という郷を通っていたことから、山口街道と呼ばれ
るようになりました。
山口街道の南には、名古屋城下東部覚王山辺りから飯田街道に繋がる高針街道や猿投方面で作られた焙烙鍋の行商路となっていた焙
烙街道もありました。
来月は最終回、常滑街道と知多街道
来月はかわら版最終回になります。佐屋街道の北側を通る常滑街道と知多街道についてお伝えします。乞ご期待。

