皆さん、こんにちは。八月です。猛暑が続いています。熱射病などに気を付けて、くれぐれもご自愛ください。

かわら版では日常会話の中に含まれている仏教用語をご紹介しています。知らず知らずのうちに使っている仏教用語。それだけ日本人の生活に溶け込んでいるということです。

毎年酷暑は厳しさを増しています。天候だけは誰にも平等に及びます。大変ですね。と言って使った「平等」という言葉も仏教から生まれた言葉です。

お釈迦様の生きた時代のインドにはカーストという身分制度がありました。

バラモン(宗教者)クシャトリア(王貴族)、ヴァイシャ(商工者)、シュードラ(奴隷)という四階級からなり、バラモン、クシャトリアはほぼ同列。ヴァイシャ以下は身分が低く、身分の違う者同士が話をしたり、恋愛や結婚はありえない話でした。しかし、クシャトリアのお釈迦様は身分を意識することなく、ヴァイシャにもシュードラとも親しく付き合いました。

お釈迦様は、身分や善悪を分けるのは人間の分別心によるものであり、そういう分別心が欲や執着や善悪や悩みや苦しみの根源であると諭しました。分別心がなければ平等心が生まれ、欲や執着から解放され、善も悪もなく、悩みや苦しみを生まないと諭しました。

かなり前のことですが、以下は実話です。聴覚に障がいのある若者がが某大学を受験しました。その受験生は英語のヒアリングテストにおいて障がいに配慮した形で受けられないかと大学に相談しました。しかし、大学は「全ての学生が平等な条件で受験することが前提です」と告げ、失望したその若者は結局受験を諦めました。

この出来事はやがて社会問題化し、以後、障がいに対して「合理的な配慮」が求められるようになりました。障がい等に対応して合理的に調整することが平等であり、単純平等は平等ではないという社会的な認識が浸透していきました。

人権とも関係するこうした「平等」概念は現代になって誕生したように思われがちですが、今から千二百年前、最澄さんは「法華去惑」の中に次のような言葉を遺されています。

曰く「およそ差別(しゃべつ)なきの平等は仏法に順ぜず。悪平等のゆえに。平等なきの差別も仏法に順ぜず。悪差別のゆえなり」

最澄さんの文章に登場する「差別」は現代用語の「差別」ではなく、「区別」や「違い」と言った意味です。「様々な違いや差異を認めない平等は仏様の教えではなく、間違った平等である」という文意かと思います。仏教用語から誕生した本来の「平等」は、人々の差異を無視した単純平等ではないようです。

雨は全ての草木に平等に降り注ぎます。大きな草木は多くの雨水を受け、小さな草木は少ない雨水を受けます。もし、草木の大小に関係なく全ての草木に同量の雨水が降り注ぐことになれば、大きい草木に適量の時は小さい草木は水浸しになり、小さい草木に適量の
時は大きい草木は水不足となります。

降り注ぐ雨量が異なっても、仏教的用語的な意味で「平等」に降り注ぐ雨は、全ての草木を育み、薬草や材木など、それぞれの草木なりの役割を果たします。

ではまた来月。

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