【第138号】諸法無我

皆さん、こんにちは。今年もいよいよあとわずか。年末年始もくれぐれもご自愛ください。

さて、先月は「三法印(さんぽういん)」あるいは「四法印(しほういん)」と言われるお釈迦様の教えの第一、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」についてお伝えしました。

今月は教えの第二、「諸法無我(しょほうむが)」。「諸法」とは「あらゆるもの」「すべて」を意味します。一方、「無我」は「実体など存在しない」ということを示しています。

この「諸法無我」の解釈は、仏教が広まった初期の頃と、後年になってからの時期で、少し意味合いが違うそうです。

初めの頃は、「あらゆるものに実体はない」ということを諭し、「自分のもの」「自分の所有物」などというものは存在せず、執着心に囚われないことの尊さを教えていました。後年になると、永遠不変の「自分=我(が)」は存在しないという意味に深化していきます。

第一の教え「諸行無常」に似ていますが、「無常」はすべてのものは移りゆくという変化に力点が置かれているのに対し、「無我」は執着心や我(が)からの解放を強調しているようです。

何だか難しいですねぇ。でも、「諸行無常」「諸法無我」と唱えていると、何だか心が落ち着きませんか。

「無我」という言葉は、さらに時を経て、仏教の中では「空(くう)」という表現に置き換えられることも多くなりました。

人間社会の争いごとの多くは、国内であれ、対外的なことであれ、個人同士であれ、国同士であれ、その主張や存在を絶対的なものと考え、自己主張に固執し、所有に執着することに端を発しています。

時が過ぎれば変化を受け入れ、お互いに譲り合い、新たな均衡や調和を目指すことこそが、人間社会の争いごとを解決する唯一の道だと思います。しかし、それがなかなか容易でないのが人間社会。難しいものですねぇ。

「諸行無常」「諸法無我」を体得できないのも宜(むべ)なるかな。人間の煩悩(ぼんのう)の為せる業(わざ)です。

煩悩の数と言えば百八つ。

今年も除夜の鐘とともに煩悩を打ち払い、来年が少しでも良い方向に向かうように祈りたいと思います。

皆さん、良い年をお迎えください。

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